研究活動紹介
室町戦国期の「京都」とその変容―西京地域を例にして
名前 | 貝 英幸(歴史学部 歴史学科) |
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研究課題 | 室町戦国期の「京都」とその変容―西京地域を例にして |
研究内容
はじめに
室町時代の京都は、「上京」と「下京」という二つの都市を合わせたような、現在とは相当に異なった様相を呈していました。(下図青・赤網掛け部分)当時の京都は自衛のため町全体が「構え」と呼ばれる土塁で囲まれていましたが、応仁元年(1467)の「応仁の乱(応仁文明の乱)」に始まる戦国の争乱は、京 都に大きな影響を及ぼしました。さらに、天下を統一した豊臣秀吉は、天正15年(1587)の聚楽第の建設を皮切りに、同18年には寺町・寺之内などの寺院街 とともに街路の新設を行い、さらに翌19年には御土居を建設し、これにより京都の姿は大きく変貌することとなります。
こうした京都の変化は、主には市街地(洛中)の拡大ととらえることができますが、洛中はどのように広がっていったのでしょう。この研究では、15世紀から17世紀ごろにかけての西京地域を例に、洛中のすぐ外側(周縁部)の変化の様子を検討し、京都の変貌を具体的に跡付けたいと思います。
西京地域と北野社
この研究が対象とする西京地域は上京 の西端にあたり、応仁の乱後急速に市街化が進んだ地域の一つで、現在の西京円 町付近から南東一帯千本三条付近まで相 当広い範囲に及びます。
西京地域のうち、北野社の門前一帯は 洛中に接続する形で町屋が連なり市街化していましたが、それ以外の大部分は北野社の所領(門前所領)であった関係か ら、畠地や藪などの農地も混在しています。特に西京の南東部分は、元は平安京 の内裏であった「内野」と呼ばれる広大な荒れ地が広がり、その一角にはやがて秀吉が聚楽第を建設します。
戦国時代から江戸時代の最初にかけて急速に市街化した西京地域は、近世京都 誕生を考えるうえでのモデルといえます。
西京地域の住人
こうした西京地域は、北野社に仕える 「神人」たちのほか、都市の周縁部に特 徴的な職人や農民、武家の被官人たちな ど様々な生業の人が居住する「雑居地」 でした。
そのなかでも「神人」と「武家被官人」 の存在は特に重要です。「神人」は北野社に祀られた菅原道真の随身の末裔を自称し、同社に奉仕する一方で、西京およ び内野の開発にかかわるなど、中心的な 役割を果たします。
一方の「武家被官人」は、「武家」とはいうものの、実際には武士だったわけ ではなく、その大半は弱小の商人や職人 でした。彼らは北野社の支配を逃れ、自らの活動を容易にするため武士の被官となっていた(被官を自称していた)ようです。
領主である北野社はその対応に苦慮する一方、被官人の主人にあたる武士は、 被官人の存在を理由に当地域に対して権利を主張し、支配の拡大を目論んでいました。こうした様子は当時の武士の実態としても興味深いものといえます。
秀吉の京都改造と西京地域
西京地域にとって最も影響が大きかったのは、天正19年(1591)の御土居の建設にあわせて実施された「永代地子免除」(同年9月実施)でした。「永代地子免除」は、秀吉が洛中の町々に対し地代の免除を約した法令で、以後洛中は江戸時代を通じて地代が免除され、西京地域もその対象に含まれました。
そして、地子免除の文書が当地域の中心的な存在であった「神人中(西京七保神人中)」に対して出されている点も、市街化する西京地域の中心的な役割を 誰が担っていたのかを示すうえで重要です。さらに「神人中」は地子免除とともに「侍分」を認められており、「西京七保神人中」と称された彼らの存在は、豊臣政権およびその後の江戸幕府によって公的に認められたことになります。この後「神人中」は、北野社に対して「社人」という立場を主張するなど、この身分をてこに当地域で支配的な立場を保持し続けるのです。

研究者紹介

貝 英幸(歴史学部 歴史学科)
専門分野
流通史、対外交渉史、古文書学
その他業績

刊行物
『京都の歴史がわかる事典』 日本実業出版社
2005年5月

刊行物
松梅院禅予と宮寺領の回復一所領注文作成を例にして一『年中行事論叢一『日次紀事』からの出発―』共著 日次紀事研究会編
2010年3月