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アニメ「忍たま乱太郎」の原作者 尼子 騒兵衛さん

(文学部史学科(通信教育課程)1988年卒業)

「もっと知りたい」を力に
忍たまと歩んだ昭和、平成、令和

 時は室町末期、「忍術学園」に入った乱太郎は、友達のきり丸、しんべヱとともに一流忍者を目指して勉学に励むのだが――。テレビアニメ「忍たま乱太郎」は日本中の子供たちに幅広く愛される作品だ。原作「落第忍者乱太郎」を描いた漫画家、尼子騒兵衛さんは会社に勤めながら佛教大学通信教育課程に入学し、さらに「乱太郎」の連載を始めるという想像を絶する多忙な日々を経て、大ヒットにつなげた。30年以上にわたり、ともに成長してきた忍たまたちへの思いと、尽きぬアイデアの源泉となった「学び」の大切さについて、尼子さんに語ってもらった。

電話交換手 学業 漫画

 尼子さんは兵庫県尼崎市出身。絵を描くことと歴史が大好きで、鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」を描かせたことで知られる竹崎季長が、中学時代の「マイハニー」だったという。
 高校卒業後はいったん機械メーカーに就職したが、学歴による待遇格差があることを痛感。「これではあかん。大学卒業資格を得る方法はないか」と調べた結果、通信制の大学に入ろうと決意した。効率的に学ぶためには、勤務のシフトが決まっていて勉強時間が確保できる仕事に就きたい。周囲から「声がいい」と言われていたこともあり、電話交換業務の国家資格を取得して、広告会社「電通」で勤めることにした。
 佛教大学には1981年入学。仕事の休み時間や休日をやりくりして勉強した。「キャンパスライフ」がないのは少し寂しいが、その分、スクーリングの日が待ち遠しかった。自分より若い子連れのお母さんからおじいさんまで、幅広い年齢層の男女と交流が深まった。

絵も見ずに連載決定

 漫画家になる夢は以前から持っていて、少女漫画誌への投稿を続けていた。採用されることもあったが、仕事と呼ぶにはほど遠い状態だった。
 しかしチャンスは突然訪れる。「ギャグ漫画が描ける人」を探していたという朝日小学生新聞の担当者が、知り合いのつてで尼子さんに連絡。「私の絵も見ずに、『忍者もののギャグでよろしく』と言われて......」。86年1月から週6回、3カ月の連載が決まった。
 会社員、学生、漫画家の「三足のわらじ」を履く生活が始まった。仕事を終え帰宅すると漫画執筆の時間。布団で寝る時間を削りながら描き、出勤前に速達郵便を出す。執筆が遅れた時は会社の倉庫にこもって仕上げる。週末も休むことなく描き続けた。「忙しかった。でも楽しかった。嫌なことがあっても、帰りの電車の中で漫画のキャラクターがいずれ親孝行してくれると夢想していました」
 約束の3カ月が近づき、「いい経験ができた」と満足感に浸っていると、担当者からの連絡は意外なものだった。「子供に人気なんで、もう1回描きませんか?」
 3カ月連載して3カ月休むサイクルが、33年も続いた。そして学業の方は連載開始から2年後、竹崎季長をテーマにした卒業論文を仕上げ、8年かかって卒業。会社での待遇も高卒から大卒に切り替わった。
 乱太郎をアニメ化する話も、意外なところから降ってわいた。娘さんが乱太郎の大ファンだという作曲家の馬飼野康二先生から連絡があり、「アニメにしてみては」と提案された。馬飼野先生がプレゼン資料を自作して、テレビ局や雑誌社に売り込みを繰り返した結果、NHKで93年から「忍たま乱太郎」が放送されることになった。主題歌「勇気100%」は、馬飼野先生が手掛けたものだ。

嘘とわかる嘘しかつかない

 「忍者もののギャク漫画」を創作するにあたって、大事にしたのは「大学で歴史学を学んだ私が、間違ったことを言っちゃいけない」というプライドだった。
 奇想天外な忍術やアイテムは使わず、「本当の忍者を調べて、そのパロディーにしよう」。歴史書をかき集め、当時の人々の暮らしや忍者の実態を研究した上で、リアリティーのある漫画を目指した。ギャグの場面では子供たちに嘘とわかるような嘘をつき、「グレーゾーンは作らない」というコンセプトを掲げた。
 例えば、「忍たま乱太郎」では自動販売機が登場する。戦国時代に自販機が存在しないことは誰でもわかるので、ギャクとして通用する。一方、買い物をする時の通貨が「寛永通宝」だった場面では、尼子さんが担当者に連絡して、再放送の回から500円玉に変更された。寛永通宝は江戸時代の貨幣で、この時代には登場しないという嘘は、歴史の知識がなければ見抜けないからだ。
 放送開始から約1年、NHK総合テレビで毎週土曜日に放送され、視聴者の間に定着していった。94年10月から教育テレビ(Eテレ)で平日の10分番組に。毎日夕方に子供たちの目にふれることで、幅広いファン層が形成されていった。尼子さんは94年に会社を辞め、名実ともに「プロの漫画家」となった。
 乱太郎たちが暮らす時代の生き生きした描写は、子供たちが歴史に興味を持つきっかけにもなる。最近では歴史を学ぶ学生が、「乱太郎を見て歴史に興味を持った」と話してくれることもあるという。

新たな夢に向かって

 昭和、平成、令和と続いた「落第忍者乱太郎」の連載は、予期せぬ形でピリオドが打たれた。2019年1月12日の早朝、目覚めた尼子さんはトイレに行こうとしたが立ち上がれず、右手右脚が動かない。脳梗塞だった。
 がんを患ったり、腰椎を折るなど、入院した経験は何度もあるが、連載は続けてきた。しかし今回はリハビリで絵を描く作業をしても、安定した線を描けず、連載1回分の絵を描くには膨大な時間が必要だと悟った。この年の連載は「傑作選」に切り替えられ、10月に連載終了が発表された。最後の単行本の表紙は、仕上げに定規を使いながら自ら描いた。
 「連載を続けていた間は、机の前で横になって眠り、起きたら仕事をする日々。今は寂しいけど、ほっとしたというのが正直なところです」。初めて買ったベッドで眠りにつく。今年4月からは、忍たまたちが歴史の舞台を紹介する新連載「乱太郎とめぐるふしぎな世界」が始まった。
 尼子さんの自宅には、佛教大学から贈られた宝物がある。97年に開館した図書館「成徳常照館」の建設資金として大学に寄付したお礼に届いた入館証だ。いつか成徳常照館を訪れてたくさんの書物に触れ、新しい発見がしたい。尼子さんの知的好奇心はとまらない。そして将来、竹崎季長と蒙古襲来をギャク漫画にしてみたいと、今も夢見ている。

尼子 騒兵衛(あまこ そうべえ) 兵庫県尼崎市生まれ。会社勤務をしながら、1981年佛教大学通信教育課程文学部史学科に入学、1988年に卒業。1986年から2019年まで朝日小学生新聞で漫画「落第忍者乱太郎」を連載。1993年には「落第忍者乱太郎」を原作とした、NHK テレビアニメ「忍たま乱太郎」が放映され、親子で楽しめる番組として支持をあつめ、現在もNHK 教育テレビで放映中。2020年4月から朝日小学生新聞で「落第忍者乱太郎」のキャラクターたちが『今昔物語』や『宇治拾遺物語』など古典のおもしろさを文章とイラストで伝えていく、月1回の新連載がスタートした。「尼崎生まれで騒々しい」ことからペンネームをつけた。時代考証にこだわり、文献・刀剣・火縄銃などを収集。「落第忍者乱太郎」は全65 巻の単行本として発売されている。

(2020.12)

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