Interviews還愚 × ○○

還愚×大野 雄大

プロ野球選手

ありのままの自分を見つめ、謙虚に生きるのは難しい。
だから僕の野球人生は、山あり谷ありだった。

令和初の沢村賞受賞者であり、東京五輪野球の日本代表として金メダル獲得に貢献した大野選手。ですがその野球人生は、決して栄光のときだけではありませんでした。佛教大学硬式野球部時代に体験した挫折と復活。プロ野球選手になってからの10年間で経験した激しい浮き沈み。そのなかで、ありのままの自分を認めて前を向こうと試みた「還愚」から、大野選手が導き出した、新たに歩み出すための答えとは。飾らずありのまま、ご本人の言葉でお話しいただきました。

  • 大野 雄大中日ドラゴンズ所属プロ野球選手
  • 1988年生まれ京都市伏見区出身。佛教大学社会学部現代社会学科2009年度卒業生。大学野球での左投投手としての活躍が評価され、2010年ドラフト1位指名で中日ドラゴンズに入団。2020年の沢村賞受賞者。東京五輪野球金メダリスト。
大学で挫折を経験するも仲間からの励ましに支えられ、
ドラフト1位指名でプロ野球の世界へ。

還愚というテーマでインタビューのお話をいただいたんですが、正直な話、僕が本当の意味で自分自身を見つめることができるようになったのはここ数年のこと。いまだに、ちゃらんぽらんなところが抜けきれないというか、全然しっかりした人間ではないんですよ。

野球人生で大きな転機を迎えたのは、佛教大学硬式野球部時代です。佛教大学を薦めてくださったのは、僕が通っていた京都外大西高等学校の野球部の監督でした。うちの野球部から佛大の硬式野球部に進む生徒が多かったことから、環境の良さをよくご存知だったんですね。また実家から通えるところもポイントだったんだと思います。おそらくですが、調子に乗りやすい僕を心配されていたんでしょう。事実僕はやらかしました。1年生で単位を落としまして、文武両道を大切にする硬式野球部の方針で2年春からの半年間、部活動を禁止されたんです。これは堪えました。

試合はもちろん練習にも参加できない半年間は、「何をやってるんだ、俺は」と辛かったですね。野球をやりたくて大学進学を選び、またそのためにいろんな方々にお世話をしていただいたのに、期待を裏切ってしまった。それは、自分の仕事ができていない、ということです。

この時期の反省から、復帰後は文武両道に励み、3年次には京滋リーグMVPとベストナインを獲得。4年次春には全日本大学野球選手権大会で初の2安打完封勝利をすることができました。また左投げ投手の有望株として注目されるようになり、自分でも「もしかしたらドラフト会議で指名されるかもしれない!」とプロ入りを意識し、学生時代の絶頂期にいました。でもそれが谷というか、挫折を招いてしまったんです。

最初の谷は、世界大学野球選手権大会の日本代表落選でした。選ばれる自信満々で選考合宿に参加したので、帰りの新幹線では恥ずかしながら泣いてしまいました。ただ、その後にオランダ国際大会の代表に選出され、部活の仲間たちからも「オランダで頑張ろう!」と励まされ、気持ちを持ち直すことができました。しかし続く秋季リーグ戦で左肩を痛めてしまい、二度目の谷に落ちました。このときは、つかみかけたプロへの道が途絶えてしまうのではと不安でいっぱいだったのですが、ありがたいことに、中日ドラゴンズから1位指名をいただくことができ、プロ入りが決定。谷から山へと登る道を拓くことができました。

中日ドラゴンズにドラフト1位で指名され、プロへの道がはじまった

人生の山も谷も、自分自身がつくりだしたもの。
そこに気づき謙虚になれたとき、差しのべられた手に気づく。

プロ野球選手になれたとはいえ、最初からスムーズだったわけではありません。初年度である2011年はリハビリを続けながらの2軍スタートでした。不安がないわけではありませんでしたが、大学時代の挫折経験から「自分の実力以上のことは発揮できない。自分のできることをやろう」という意識でいましたね。これは今も変わりません。いい意味で、鈍感なんです。

翌年からは良い波に乗ることができました。キューバ代表との国際親善試合「侍ジャパンマッチ2012」の日本代表に選ばれ、2013年度からは3年連続2桁勝利。2015年末には翌年の開幕投手や選手会長選出が決まり、メディアからもたくさん取材を受けました。

しかし今振り返ると、この頃の僕は浮かれていましたね。真面目に練習に取り組み平常心でいたつもりだったのですが、妻に言わせれば「あの頃のあんたはアカンかった」と。チームメイトや家族など身近な人たちとの関係は良好でしたが、慢心というか自分が見えておらず、無自覚に驕りのようなものがにじみ出ていたのだと思います。

そこから急速に僕は調子を失いました。どん底だったのは1勝もできなかった2018年です。このままではユニフォームを脱がなければいけない、と本気で思いました。

僕が本当の意味で自分を見つめ直したのはこの時です。自分がお調子者な性格なのはしかたなくても、人間的にしっかりしていれば、不調になってもメディアからそっぽを向かれることはなかった。不調なら不調なりに、僕の考えや取り組みを聞きたいという記者の方がいたはずです。それに気づけなかったのは、人として何か足りなかったんですね。

どん底を経験したからこそ、今の成長がある

この時期、どん底まで落ちていた僕に気づきを与えてくれたのが、母の言葉でした。僕は毎年オフシーズンには地元京都に帰るんですが、そこで、子ども時代からずっと僕を見てきた母に「あんたは昔から壁にぶち当たる人や。でもあんたはそれを乗り越えられる人間でもある。頑張りや!」と励まされ、「確かにそうやな」と勇気を得ました。

人はどん底にいるときって、これが壁であるとか、乗り越えたら更に見えてくるものがあるなんてことには気づけない。ただただ苦しいだけで、誰にも相談できず迷い続けてしまいます。だけど僕は母の言葉をきっかけに、再び上を向くことができました。調子乗りでちゃらんぽらんな自分は変わらなくても、人に求められる人間であろうと決意し、今のありがたさを謙虚に受け止めるようになりました。

そこからの2019年は、周りから復活の年と呼ばれる状況に。2020年には沢村賞を受賞し、東京五輪の野球日本代表にも選出いただきました。でも以前のように浮かれて終わるということはなくなりましたね。何かをいただくたびに身が引き締まるというか、いつかユニフォームを脱ぐ時までに、野球人として人間として、いかに成長できるかが問われると考えています。

紫野キャンパスで開催された「大野雄大選手東京五輪金メダル報告会」

大学時代を振り返って思うのは、もしも佛大で挫折を経験していなければ、僕はもっと早くにユニフォームを脱いでいただろうということです。挫折を知らず順調にプロ野球入りしていたら、大学時代が最高潮で、そこから落ちるしかなかったでしょう。そう考えると、山あり谷ありの人生でしたが、今のこの人生で、ほんまによかったと思います。

人生には大なり小なり挫折があるし、その時に支えとなるのが自分以外の誰かの助けです。今後は周りに求められる人間になるとともに、壁にぶつかっている人を支えられるような役割を果たしていければと考えています。ユニフォームを脱ぐまで、また脱いだ後も。

2022/3/26