京都北山の松上げと愛宕信仰

                                    八木 透

  1 はじめに

   京都では、大文字の送り火が終わると、それまでの夏の蒸し暑さから一転して、そろそ
  ろ秋の気配が漂い始める。8月下旬、町角では子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。各
  町内ごとに地蔵盆が行なわれるからである。ちょうどその頃、京都北部から若狭にかけて
  広がる丹波山地、通称“北山”の奥にたたずむ山里では、「松上げ」とよばれる勇壮な火
  の祭礼が行なわれる。松上げの古風な形態は、各村の愛宕を祀る山の頂で松明を燃やし、
  また神木である松の古木に向かって松明を投げ上げるものであった。この神木は一般に「
  柱松」とよばれるもので、修験道の行事と深い関わりをもつ。すなわち柱松を立てて山伏
  がこれに駆け登り、火打ち石で発火させ、人々の煩悩を焼き尽くす儀礼が、やがて山伏の
  験力を競う一種の競技となり、それが民間に流布して、盆の精霊迎えや精霊送りとしての
  火の祭礼と習合するに至ったものと考えられる。
   今日見ることができる松上げは、村の広場に長さ20メ−トル近いトロギ(灯篭木)と
  よばれる柱松を立て、先端にモジという傘状の篭を取り付け、村の男たちが火のついた上
  げ松とよばれる松明をくるくる廻しながら投げ上げて火をつけるというものである。山里
  の真っ暗な夜空に舞う松明は、まさに“炎の矢”というにふさわしい。松上げは夏の夜の
  荘厳な火の祭礼である。

  2 丹波と若狭の松明行事

   北山の麓、上賀茂神社から鞍馬街道を北上すると、やがて数々の伝承を残す鞍馬の里に
  出る。鞍馬から花背峠を登り、花背別所、大布施の村を越えてさらに北へ向かうと、静か
  なたたずまいをみせる花背八桝の里に着く。このあたりの村は、かつてはどこも林業と炭
  焼きが盛んで、常に山をなりわいの場としてきた。松上げ行事にも、かつての山仕事の技
  術が随所に生きている。
   八桝では、かつては8月24日に松上げが行なわれていたが、今日では8月15日の夜
  に行なわれるようになった。多数の男性の力が不可欠とされる松上げを維持してゆくため
  に、村を離れている若者たちが故郷へ戻ってくる盆の期間に行事の日を移動したためであ
  る。松上げはかつての修験道の影響からか、準備から本番まですべてが男性のみによって
  行なわれ、女性は一切関与できないことになっている。
   松上げの当日、八桝の集落では、上桂川が大きく蛇行するトロギバ(灯篭木場)とよば
  れる平地の中央に、先端にモジを取り付けた高さ約20メ−トルの桧の柱が垂直に立てら
  れる。夕刻になるとその周囲には千本近いジマツ(地松)が立てられ、いよいよ幻想的な
  雰囲気が盛り上がってくる。やがてネギ(禰宜)とよばれる村の神職を中心とした役員た
  ちが、村内にある愛宕社から種火を松明に移し、灯篭木場に到着すると、一斉に地松に火
  が灯される。暗闇の中にほのかに浮び上がった灯篭木は人々の目にひときわ高く映る。や
  がて8時すぎ、鐘と太鼓を合図に灯篭木場に集まった男たちは、一斉に先端のモジを目指
  して上げ松を投げ始める。降り注ぐ火の粉の中、男たちは上げ松を拾っては投げ、また拾
  っては投げ続ける。やがてだれかの投げた上げ松がモジに入ると、行事はいよいよクライ
  マックスを迎える。モジが炎を上げて勢よく燃え始めたかと思うと、瞬時にして灯篭木を
  支えていた綱が切られ、灯篭木は炎の海の中に倒される。開始から約十数分で松上げは終
  わる。人々の興奮を誘い、観る者の心をうつ行事は長く続いてはいけないのかもしれない。
   八桝からさらに北へ辿るとそこは広河原の里。かつては車道もここまでで、あとは佐々
  里峠を越えて美山町へ抜ける細い峠道が続くのみであったが、今では立派な車道が峠へと
  伸びている。広河原でも八桝と同様の松上げが8月24日の夜に行なわれる。広河原の松
  上げの大きな特色は、行事の1週間ほど前に、普段は佐々里峠に祀られている地蔵を村内
  の観音堂に移すことである。この地蔵は松上げが済むまで村内で祀られ、やがてまた峠の
  堂に戻される。
   一方、加茂川の源流にあたる雲ケ畑の里でも、8月24日に村内の2ヵ所の愛宕山とよ
  ばれる場所で松上げが行なわれる。ただ雲ケ畑の松上げは、山の頂に百束余の松の割り木
  で文字の形を作り、それに点火するという形態をとっている。
   今日松上げの行事を伝えているのは、上記の他に京都市左京区久多の里、北桑田郡京北
  町の小塩や美山町の芦生など数カ村と、福井県では、遠敷郡名田庄村全域と、小浜市の南
  川流域の地域である。しかし松上げとはよばれないが、同種であると思われる松明行事は、
  京都府の美山町・京北町など丹波の山中から若狭の小浜市・大飯町・名田庄村へと分布し、
  さらに亀岡市から大阪府の能勢町・池田市、さらに兵庫県三田市から西の山崎町へとその
  分布が広がっている。若狭の大飯町ではオオガセと称し、10メ−トルほどの桧の柱に5
  段の横木をつけ、先端に乾いた萱をしばりつけ、それに火をつけて回したり倒したりする
  行事が行なわれている。なお小浜市と大飯町の境界地域では、かつてはデンデコと称して、
  松上げとオオガセのまさに混同したような形態の行事が行なわれていたという。さらに大
  飯町と名田庄村の境界地域では、オオガセとは別の日に、松上げが行なわれるという例も
  あり、行事の形態や分布に関しては、非常に複雑な様相を呈している。
   一方亀岡市畑野町の土ケ畑と千ケ畑では、サンヤレと称し、子供たちが各家から松明を
  集めて山の頂上へ運び、鉦と太鼓で囃しながら火を焚く行事が行なわれている。畑野町か
  ら大阪府へ入った能勢町田尻では、アタゴビ(愛宕火)と称し、各家々から松明を持って
  村にある愛宕山の山頂に集まり、まず愛宕の祠に参り、持ち寄った肴と御神酒で小宴を開
  く。日没になると2メ−トルほどの竹で作った松明に火をつけ、太鼓にあわせて唱え言を
  しながら松明を引きずって村近くの河原まで降りてくる。村ではこの松明の火が見えてく
  ると、家の門口でオガラを焚いて先祖の霊を送る。
   このように、夏の松明行事は、京都北部の村々から山伝いに若狭へ、さらに口丹波から
  摂津、播磨へと広がっているのである。

  3 松上げと愛宕信仰

   松上げの行事は、先に述べた例からもわかるように、愛宕信仰と深く結びついて伝えら
  れている。そもそも愛宕信仰とは、京都市の北西に位置する愛宕山に祀られる愛宕権現を
  中心とした信仰である。愛宕山は8世紀初頭の大宝年間に修験道の開祖であるとされる役
  行者と、加賀白山ゆかりの僧泰澄によって開かれたといわれる霊山である。祭神は諸説が
  あって定かではないが、いずれにしても火の神であることには違いない。愛宕権現は早く
  に神仏習合をとげ、将軍地蔵がその本地仏として崇敬されるようになった。愛宕信仰は、
  愛宕山に集まった多くの修験者たちによって各地に広められ、民間では火伏せの神、また
  境界を守る塞の神として広く信仰されている。関東・東北地方でも愛宕の分布は著しく、
  また近畿一円の地域では愛宕講などを組織して、今日でも代参を行なっている村も多い。
   このように、松上げは火の神である愛宕信仰に端を発し、さらに愛宕と深い関わりのあ
  る地蔵信仰とも結びついた、いわゆる神仏習合的な民俗行事として今に伝えられている。
  そもそも松上げが行なわれる8月24日は、地蔵の縁日に由来するもので、京都や大阪な
  どでは、この日は地蔵盆が行なわれる日でもある。今日“地蔵盆”の名で親しまれている
  この行事も、明治以前は“盆”ではなく、地蔵菩薩を祀るための行事で、“地蔵祭”とよ
  ばれていた。これも、夏に行なわれる種々の民俗行事が“盆行事”の中に吸収されていっ
  た例のひとつである。広河原で、8月24日の松上げに先だって、美山町との境界に祀ら
  れている地蔵を里へ迎え、松上げが終わればまたもとの場所に戻すという例などは、素朴
  な地蔵祭としての松上げの原初的形態を留めた格好の事例であろう。

  
4 むすびにかえて−松上げと盆行事の関係をめぐって

   松上げの名は知っていても、それが具体的にどのような行事であり、またいかなる信仰
  に由来するものであるかを知る人は少ない。曖昧な新聞報道や誤解を招くような雑誌の記
  事によって、松上げがあたかも盆の送り火の一形態であると信じている人も多いように聞
  く。
   これまで述べてきたように、松上げはもともと愛宕信仰に基づく火伏せの行事であった。
  火は人々の暮らしになくてはならないものであり、様々なものを産み出す源でもある。し
  かし一方で、火は村や山、さらに人々の暮らしまでも、あらゆるものを焼き滅ぼしてしま
  う恐ろしい力を秘めた魔物でもある。昔の人々は今日の我々と較べて、火の恵みや驚異を
  より深く認識していたのであろう。愛宕の神は、このような人々の素朴な祈りの心の依り
  所として厚い信仰を集めた。年に一度愛宕を祀り、愛宕の神に火を献ずる行事が松上げで
  ある。今日見られる松上げ行事には、盆の精霊送りとその供養とはまったく異質な、火伏
  せの信仰としての愛宕信仰が濃厚に伝承されている。このような愛宕への献火としての松
  明行事と、大文字の送り火に代表されるような種々の様相を示す精霊供養のための盆の万
  灯篭行事とは、その発祥は別個のものであると理解すべきではないか。ただ両者とも山で
  松明を焚くという共通性を有したがゆえに、早くから習合をとげ、混同した形で変遷して
  きたものと考えられる。雲ケ畑の松上げで、山上に割木を組んで松明を取り付け、文字の
  形を表わすという形態は、まさに京都の大文字の送り火の影響を受け、本来愛宕火の行事
  であったものが盆の送り火の行事と習合した典型であろう。
   松上げと、京都五山の送り火との関連については、これまでほとんど明らかにされては
  いない。史料がきわめて少ないために実証してゆくことは困難であるが、五山の送り火が
  年中行事として定着するのが近世以降のことであるということから、筆者はもしかすると
  愛宕信仰の松明行事が先にあって、それがある時期に盆の万灯篭行事と習合して、今日見
  られるような、山に松明で文字を描くという特異な送り火の行事が作られたのではないか
  と考えている。速断は許されないが、いずれにしても、愛宕信仰の“火”と、盆の送りの
  “火”とは、もともと異質なものであったのが、行事の行なわれる時期が近接していたこ
  とと、本来の行事のもつ意味が徐々に忘れられ、混同していったことは十分に考えられる
  であろう。
   大文字の送り火や松上げのル−ツに関しては謎だらけである。筆者にもまだ完全にはこ
  の謎を解くことはできない。しかし鍵解きの鍵は、意外な所に潜んでいるのかもしれない。
  たとえば、日本海沿岸地域には夏の火の祭礼が多く分布していることに気づく。青森のネ
  ブタ祭り、秋田の竿灯、能登輪島のキリコなど著名な祭りも多い。これらの火の祭礼と京
  都の大文字の送り火や松上げとどのような関係があるのだろうか。本稿ではこれ以上の言
  及は避けるが、筆者がもし近い将来、謎解きが果たせれば、その時は稿を改めて読者諸氏
  にその経緯をお伝えしたいと思う。

  〈主要参考文献〉
  『あるくみるきく:北山の松上げ行事』第168号 1981年 日本観光文化研究所
  『愛宕灯篭』 1994年 亀岡市文化資料館
  『佐伯灯篭』 1995年 亀岡市教育委員会
  岩田英彬『京都文庫:京の大文字ものがたり』 1990年 松籟社
  斎藤清明『京都文庫:京の北山ものがたり』 1992年 松籟社
  八木 透『丹波・若狭の松明行事』(『京都民俗』第15号 1997年)


  ※初出 「京都北山の松上げと愛宕信仰」
       (『創造する市民』第52号、京都市社会教育振興財団、 1997年)