生活史研究試論

生活「転換点」の意義

高橋伸一

  〔抄 録〕

 今日の生活研究は多様に分化している。それは、「生活」という概念の多義性、曖昧性が原因であることはいうまでもないが、現代生活の変化の激しさがもたらす生活理解の困難性をも象徴している。
 本稿は、「生活」研究の一領域としての生活史研究に注目し、研究の到達点とその方法論上の課題を明らかにすることにある。生活の変容を考察するには、社会学では主に、戦後の経済高度成長を「転換期」としてとらえ、その過程を総合的に分析することに終始してきた観がある。しかし、高度成長の終焉から、すでに四半世紀が経過し、その後の生活変容を新たにとらえる視点が求められている。ここでは、高度成長の終焉した1973年を「現代」のはじまりと設定し、さらに80年代半ばの「産業調整」を新たな「生活再編」期として設定することを提起するものである。
キーワード:生活史 生活の「分岐点」 標準化 個別化 生活様式
 
  

  

1 はじめに


 筆者はこれまで多くの生活史をヒアリングしてきた。とくに、「去るも地獄、残るも地獄」といわれ、人生の選択を求められ困惑を体験した炭鉱離職者の生活を長年にわたって追跡調査した経験を有している。そこでの課題の主たるものは、個々の人びとの生活を根底で支えてきた仕事を失う、すなわち失業、再就職という生活の転換を社会的に余儀なくされた人びとの生活過程をトータルに把握することであった。敗戦後の日本経済の復興をエネルギー供給という基底で支えた人びとが、長年住み慣れた町を離れ、働く仲間と別れ、新たな地域で生きるためにどのような暮らしを過ごしてきたのか、彼らとその家族の変遷をありのままに記述することが、私の課題と考えている。
 すでに、彼らが炭鉱を去ってから30年以上という時間が流れている。多くの人びとは、子どもたちを無事に成長・自立させ、自らはささやかな年金生活にはいっている。そうした彼らがときに集い、炭鉱での生活を振りかえり、これまでの暮らしを昔の仲間と語りあう場に触れてきた。変動極まりない社会経済のうねりのなかで、自らの生活を守り築き上げてきた彼らから教えられることは多い。炭鉱時代から再就職、定年退職までのすべての給与明細を大切に保管している人、家族の冠婚葬祭にかかわる収支を丹念に記録している人など、その生活記録の方法はさまざまである。なかでも、炭鉱閉山時の離職者対策に奔走した経験を有するT氏の「自分史」に出合えたことは、とくに記しておくべきであろう。
 筆者は、こうした離職者の生活史を分析・解釈する過程で、彼らの個人生活の具体的な出来事を個人のライフ・ステージ、キャリアなど、個人属性を軸に展開を試みてきたが、生活史のもうひとつの側面である、社会の側の動き、要件を視野に入れる必要性を痛感している。このことは、生活史研究の二面性(ミクロ的、マクロ的生活史)として(1)、明確に指摘されてきたことであり、理念的には熟知していたつもりであるが、実際の作業としては歴史的な展望のなかでの生活変遷史を双方向から捉える作業はそれほど容易ではない。生活という複合的・重層的な実態をさらに時間的、空間的に場面設定を行なう生活史の把握において、社会経済が個人の動向にいかに対処するかを個人の側から読み取るのは本質的な課題といわざるを得ない。これには、筆者の浅学に原因があることであるが、社会学における生活史研究は、個人の生活史を記述することで個人に象徴される社会の変動、社会の影響をダイナッミックに写像するには充分な手法を確立し得ていないようにある(2)。むしろ、現状では、近年の社会史、地方史、民衆史、民俗史等における生活史の記述に魅力を感じる(3)
 本稿の課題は、ミクロ的な生活史とマクロ的な生活史を統合するひとつの試みとして、生活様式の変遷過程に着目し、生活史研究の新たな展開を模索することである。戦後の日本人の生活を大きく変えた高度経済成長が終焉してから四半世紀がすぎたが、経済成長が低成長・安定成長時代をへても、「生活革命」はいまだに進みつつある。経済のグローバル化による「大競争時代」を背景に、少子高齢社会の進展は日常生活の変化において、その速さと質の転換をみせている。生活史研究に大胆な息吹を吹き込もうとするケン・プラマーは「人間主体の社会学」「個人の復権をめざす社会学」を提唱しているが(4)、生き生きとした人生をおくるための生活学の展開を考えたとき、思い切ったパラダイムの転換が必要であろう。

 2 生活様式論とライフ・スタイル論


 「生活水準」という用語が政治言語の主要な語彙となり(5)、日本経済運営の主潮は「生活水準の向上」のみに目を奪われ、即物的な価値にひた走ったなかで、生活水準は、あるべき生活内容を指す規範的意味は削ぎ落とされ(6)、単に生活内容の実態を量的観点からのみ記述することが一般化したように、人びとの生活状況を総合的に捉えようとする「生活様式」「ライフ・スタイル」の意味も消費社会の奔流に巻き込まれ、マーケティングのコピーの一部に転落した観がある。
 ここでは、生活様式の概念とライフ・スタイルの概念について整理しておきたい。橋本によれば、両者は本来区別しえないものであったが、ライフ・スタイル論の形成過程で、ライフ・スタイル概念は、<生き方や生活態度>といった<生活意識>の問題に収斂し、生活様式論の方は、<生活の仕方>の問題に関心がむくことで、両者の区別がなされてきているという(7)
 平成10年版の「労働白書」は「中長期的にみた働き方と生活の変化」と題して、75年から現在までの四半世紀を、「就業形態、職業生涯および労働条件といった働き方」について分析をおこなっている。「企業中心のライフスタイルの転換のため、社会や企業の仕組みの変革と併せて労働者自らの発想の転換が必要不可欠である。」「労働者の働き方を、従来の画一的・集団的なものから、個人個人のおかれた状況、意識、将来設計、能力などに応じて自ら選択し、かつ自律的に働くものへと変えていく必要がある。」(8) とし、日本的雇用慣行の新たな段階、方向を指し示し、男性が地域社会や家庭生活に参加するよう、価値観、ライフ・スタイルの転換を求めている。
 また、平成9年版の「生活白書」でも、「働く女性―新しい社会システムを求めて」を特集、就労タイプ別に女性の生涯賃金の格差を具体的に示し、生涯賃金の「損失率」を数字化し露骨な経済誘導による女性のライフ・スタイルの変化を強調する(9)
 「労働白書」におけるライフ・スタイルは、従来の企業中心の考え、「会社人間」からの離脱をはたし男女共生の生き方を志向する意味で用いられている。「生活白書」では、社会的に「要請」される女性の就労のパターンを意味する。こうした白書の事例をあげるまでもなく、ライフ・スタイルということばは、まさに多義的にそれぞれの論者によって勝手に用いられている。社会学が人々の生活様式、行動様式、思考様式といった生活諸側面の社会的・文化的・心理的な差異を全体的な形で表現し、主には「生活財に対する個人の選好パターン」という定義はいまや無力である。現代のライフ・スタイル論は、マーケティングの分野で頻繁に使われて、消費行動を決定する主体が、合理的な経済計算に基づいて、消費者として行動するだけでなく、「主体性」をもって自らの生活システムを設計する「生活者」としての意識をもつようになってきていることを前提にして成立している。このことは、財の選択的消費をともなう生活行動が、諸個人の社会経済的属性によっては、充分に説明されなくなった事態を浮かびあがらせる。
 一方、生活様式概念は、1978、79年の「生活様式の転換に関する国際会議」(10) 開催に象徴されるように、「豊かさ」を問い直す概念として経済学、社会学を中心に論じられた。とくに、日本では建築学の西山卯三、住居学の吉野正治といった幅広い研究領域の参加を得て活発な論議が展開されてきた。成瀬龍夫は、現代の生活様式の特質を「アメリカ的生活様式」(11) と規定し、大量生産・大量消費体制の確立のもとで形成された消費様式であり、生活手段の全面的な商品化とその個人的所有、個人的消費に特色を見出した。

3 生活の「標準化」と分岐点


 80年代の生活様式論をさらにおしすすめ、各世帯における耐久消費財の保有状況を軸に新たな指標を提唱したのは、馬場康彦である。彼は、「標準化」、「個人別化」の概念を用い戦後社会を大きく変えた経済成長期の終焉をもって現代の分岐点とする。具体的には、のちに触れるいくつかの特徴から1974年を「歴史的転換点」、「『現代』」の出発点」とする。馬場の考える「生活の標準化」とは、「社会的に必要な生活手段の質量的範囲を有して営まれる生活の水準が、すなわち『標準』が生活過程において徐々に固定的なものとなり、世帯に対して外的な一つの社会的強制力として、職業=所得階層の違いには関係なく作用する傾向を言う。」また、「個別化」とは、「世帯を単位として、世帯の必要において耐久財を保有するのではなく、世帯の構成員個々人を単位として、個人の必要においてそれを保有するようになる傾向をいう」(12)
 耐久消費財の個別化は、基本的には家族の個人化、生活の個人化、生活行動の個人別化、生活価値観における個人主義と相互関連した生活の変化と位置付けている。「『標準化』と『個別化』という一見すると対立的で無関係にみえる傾向が実は、家族共同体=生活構造という同一物の二側面として存在しており、生活構造の画一化、標準化が進めば進むほど、同時に生活構造の個人別化が進展するという関係にある」(13) とする。氏のいう生活構造の編成替えは、「共同性の基礎の上での個別性を体内に携えた二重構造としての生活構造であったが、それが逆転して個別性を基礎とした上での必要最低限度の共同性の維持がなされるような二重構造としての生活構造」となる。
 現代の生活経済が1974年を歴史的転換点として設定される根拠として、氏があげる理由は次の6点である(14)

1)高度経済成長期が1970年に終了し、73年のオイルショックによって74年から本格的に低成長期に突入した。
2)勤労者世帯の収入階級間格差は73年で最小値を記録し、74年で反転する。
3)主要な耐久消費財の世帯内での編成・配備が完了した。
4)耐久消費財の保有数量に関する収入階級間格差が74年まで縮小し、それ以降は格差が拡大傾向。
5)銀行の第二次オンライン化による他行とのネットワークが本格化したのが74年、給料の自動振り込み、公共料金の自動引き落としシステムの一般化が進む。(家計のオンライン化)
6)女子の雇用者総数のうち、有配偶者の比率が75年に50.4%に達する。
 以上の理由のなかで、2)の収入格差、3)の保有数量に関してはそれぞれ実収入ジニ係数、保有数量ジニ係数が氏の計算式によって丹念に求められ、分析の重要な指標となっている。計算を苦手とする筆者としては、計算式そのものへの検証は避けざるをえないが、労働白書によると、「年間収入五分位階級の第T階級と第U階級との格差は、1980年代後半から1990年代前半にかけては格差は縮小傾向をみせている」(15)と、馬場の見解とはことなる。また、保有数量の収入階級間格差については、氏の保有数量のジニ係数は、『全国消費実態調査報告』(総務庁統計局)を基にしており、そこでの消費生活構造を捉える場合の基本単位は「世帯」にあり、「家計から個計」へと生活単位、生活行動が激しく展開する実態を捉えるには、データ的に一定の限界を勘案する必要があろう。たとえば、この数年、商品開発が頻繁になされる携帯電話は、家族のそれぞれが各自の口座から自動引き落としで支払い、「家計」には計上されないことも考えられる。
 1974年を生活の転換点とする理由には、さらなる検討がなされる必要はあるが、戦後半世紀をすぎた今、「現代」の展開を70年代の前半に求める視座は重要である。その際、転換点を主要耐久消費財の普及、保有を軸にするのは氏の生活経済論の立場からは合理的なものであっても、社会史的な認識からいえばむしろ1973年(石油危機)をもって転換点とする方が共通理解を得やすい。
 
 

図1 現代生活経済の概念図
図1
資料:馬場康彦『現代生活経済論−真の「豊かさ」とは何か−』ミネルヴァ書房、1997年、P.10



 
 
 
 

4 オイル「ショック」の意味


 馬場の「転換点」は、生活経済論というフレーム、具体的には主要耐久消費財の標準化、個別化を軸にするものであった。しかし、社会史経済史というより幅広い視座、さらに生活史研究というドキュメントな人間生活をあつかう場合、社会史、世相史との関係、社会意識、イデオロギー、さらには人々の生活に深くかかわる諸要因とのかかわりを検討する必要があろう。その意味では、歴史的事象をもって時期区分の指標(16)とするのが一般的な理解を得やすいと考える。ここでは、1973年のオイル・ショックを生活の転換点、現代の始点とすることを提唱したい。
 戦後改革に次いで、日本社会を大きく変えた高度経済成長は、一般には1955年から1973年までの18年間をさす。この間に日本経済の規模は国内総生産(GDP)では、名目で約13.6倍、実質で約5倍に増加、都市から農村への人口移動の激増、産業構造の転換がもたらされた。
 人口移動、産業構造の転換がもたらした社会、生活への影響はここでは触れない。ただ、70年代での「転換」との関係で指摘しておかねばならないことは、60年代末には、東京・大阪・京都・沖縄で革新知事が誕生、全国634市の5分の1にあたる126市が革新市長となったように、労働運動・市民運動・住民運動が高揚した時代であった。その背後には公害問題、交通戦争など深刻な社会問題がある。すなわち、生活環境としての自然の破壊と、都市化と伝統的生活様式の解体・大量消費的生活様式の浸透による共同的生活手段の需要増大が主要な社会対抗の争点となったのである。
 他方、この時期はアメリカ経済の衰退が進み、71年8月、ニクソン・ショック(金ドル交換停止)、円切り上げ、さらに73年3月には変動相場制へ全面移行した。ブレトン・ウッズ体制を支えていた二つの柱が取り外されたことにより、同体制は崩壊、これ以後、世界経済は「海図なき航海」(17)といわれる時代に入り、米中の和解、ベトナム戦争の終結、中国は文化大革命に終止符を打ち、78年からケ小平の中国は改革・開放の路線を歩みはじめ、韓国・台湾・香港・シンガポールのアジアNIESが台頭してくる。日本は、円切り上げを契機に、直接投資が東アジアを中心に急増しはじめ、「投資元年」(1972年)をむかえた(18)
 このような状況のもと、1973年の石油危機を日本はむかえた。企業は低成長時代に対応して減量経営を進め、超効率社会を目指した。GNP第一主義に軌道修正をくわえ、もっとゆとりある生活を求めた日本人は、この石油危機を境にふたたび馬車馬のように働き続け、単身赴任・過労死というそれまでに見られなかった現象にあらわれるように、すべてが企業中心に動き出すという、企業社会、会社人間を生み出すことになった。
 世界のシステムを変容させる契機となったオイル・ショックとは、いかなるものであったのか。第1次石油危機は、1973年10月6日勃発の第4次中東戦争を契機に、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)が採用した石油戦略による石油の禁輸・量的制限と、OPEC(石油輸出国機構)が一方的に実施した原油価格の大幅引上げとにより発生した。第1次石油危機における石油供給の量的削減は、事後的にみればそれほど大きくはなかったが、石油は安価で量的にも必要なだけ供給されると安易に信じ込んできた日本を中心とする石油輸入国側に、オイル・パニックというべき事態を発生させた。日本では、政府によって11月以降、11業種に対する電力・石油の10%供給削減措置、民間へのエネルギー節減要請(マイカー自粛、ネオン中止、テレビ放映時間の繰上げ等)、三木武夫副総理を政府特使としてアラブ各国に派遣(非友好国扱いから友好国扱いにしてもらうため)等の措置がとられた。この間、物不足になるという懸念が国民一般に広がり、売惜しみ、便乗値上げ、買いだめが横行し、トイレットペーパーや洗剤等の買占めに殺到した。
 たしかに、先進工業国のなかでも、第一次エネルギー消費に占める石油のシェアが77%強と群を抜いて高かった日本は、いわゆる石油づけの状況下で、石油の供給が途絶ないし量的に制限されるか、石油価格の高騰が生ずれば、経済やわれわれの生活は決定的な影響を受けざるをえない。石油供給の量的制限は、石油備蓄の放出および節約・有効利用の推進によって相殺されないかぎり、経済の実態面における生産の減少、生活水準の低下を生じさせることになる。さらに価格の高騰は、@インフレの加速化、A石油輸入支払代金増加による海外への所得移転の増大、B国内需要の減少、C不況・失業、D国際収支の悪化、といういわゆる三重苦(トリレンマ)をもたらすことになる。事実、ドル・ショックと石油危機のダブル・パンチによって、日本経済は「戦後最大の不況」に突入した。この最大の不況を、日本経済は、輸出の集中豪雨的拡大、財政支出の拡張、「減量経営」(雇用調整、省力化)の徹底的遂行、技術革新(ME化、OA化の促進)によって乗り切り、「経済大国」(19)への道をひたすら突き進む。こうした不況対策のなかでも、「減量経営」は、不況脱出の中心であり、その中心は雇用調整であった。一般には、欠員不補充、新規・中途採用削減、非正規従業者(パート、アルバイト)の雇用削減が最初に進められ、次いで、正規従業員の出向・転籍、希望退職、指名解雇が行なわれた。つまり、まず正規従業員と非正規従業員の格差化が進行し、次いで正規従業員のスリム化が進行したのである。雇用形態の多様化、雇用の不安定化がすでにこの過程で進展していた。
 80年代に入り、日本経済は、円高のさらなる進展と国際経済摩擦の激化、国債の累積による財政「危機」、産業構造のソフト化・高度化による産業再編成、といった新たなる課題に直面することになるが、1970年代の「危機」を日本経済が乗り切ったのは、「石油危機」をバネとして、あるいは「オイル・パニック」を利用して、国民に対する意識変革を「オイル・ショック」というかたちで展開したともいえる。事実、74年後半にはすでに、「物不足」によるオイル・パニックは、虚偽の情報に踊らされてつくり出されたものであることが明らかとなっており(20)、79年の第二次石油危機に際しては、パニックの再燃することはなかった。「現代」日本が、1973年からはじまる、という歴史事象の設定は、そうした論理を背景にもっている。このことは、山崎のいう「自分の人生上の問題を国民共通の事件として受けとめ、国家的に普遍的な現象として理解する習慣を身につけた」(21)とされる日本人の意識の問題や、ベネディクトを丹念に論考するラミスの「家族国家イデオロギー」、さらにウオルフレンの「政治化された社会(politicized society)」(22)の論理と共通する課題といえよう。
 

5 「転換」と生活の再編

 「現代」の開始を、1974年にもとめた馬場によれば、この時期から生活財の個人別化を背景に生活行動の個人別化がもたらされるのであるが、彼はこうした「現代」の特徴を「生活標準」レベルの上昇をともないながら、収入階級間「格差」が拡大する傾向のなかで引き起こされ、そして、標準ラインが上昇すれば供給される商品が増大し、そのことが生活者にとっての「必要からの乖離」を現象するので、結果として、生活経済上の「転倒的関係」を生み出すとする。「転倒」を要約すれば、
1)家計収支の「転倒」:支出に合わせて収入を調整する(消費者信用・共働き)
2)消費構造上の「転倒」:生活基礎費用(食料、住居、光熱・水道、家具・家事用品、被服、医療)よりも、生活周辺費用(教育、教養・娯楽、交通・通信)の消費ウエイトが高まる。
3)家族関係の「転倒」:個人保有が世帯保有に優先する財がふえる。家族より先に個人がある。生活時間、家計管理もみられる。
4)家計支出の優先順位の「転倒」:銀行のオンライン化により、支出の内容(必要・重要)に関係なく、銀行引き落とし部分が機械的に最優先で支出される。意識のなかでは、残りの部分が<生活費>として認識される。
5)ライフスタイルの「転倒」:生活価値が「必要」=生活基礎部分から生活周辺部分に転倒している。高級外車を保有しているが住居は六畳一間のアパート。
 馬場は、かくして現代の特徴を「格差」「乖離」「転倒」として捉える。衣食住にかかわる支出(生活基礎費用)から教育、教養・娯楽、交通・通信(生活周辺費用)等の支出にウエイトが移動していくのは事実であり、総括としてライフ・スタイルが構造的に変化するメカニズムをリアルに記述している。ただ、こうした変化、それをもって「必要からの乖離」、「生活の転倒」という認識にいたるのは一考を要する。生活を個別、個人化する条件はさまざまに重なりあって展開するのであって、単に消費支出の内容変化を軸に「必要」を判断することには限界がある。人生の過程において、新しい条件にうまく対処するためには、すでに確立された行動のパターンを変える「必要」がある。これは主要な必然的な移行であり、役割、関係、セルフ概念を新たに獲得したときに形容される「転換」である。
 ここで、ニクソン・ショック、オイル・ショック前後の政策の動向に注目しておきたい。すこし触れたように、高度成長期の末期には多様な矛盾、社会問題が発生し、それへの対抗として住民運動、市民運動が高まり、革新自治体の出現をみた。70年安保・沖縄返還運動、大学紛争、反公害・乱開発反対運動が三つどもえになって噴出した。70年代には、地方自治体への制度要求をすすめる運動が顕著化し、区長や教育委員長の公選、環境アセスメント、情報公開条例の制定、市職員の退職金引下げなど、政治参加への要求がなされた。
 しかし、オイル・ショック以降、企業社会化と情報管理化が進むなかで、市民運動、住民運動が取り組む問題は複雑になり、解決策の不透明さが顕著となった。人びとの関心も身近な生活の質にかかわる問題に向けられた。結果として、社会保障、教育、住宅など生活に密着したところでの停滞、悪化があらわれてくる(23)。日本の社会保障は、基本的には産業ないし経済政策的側面を優先させてきた。その意味では限界を有しながらも、1970年代のはじめごろまでは、不充分ながらも一定の制度は整い、内容の充実をみる。老人福祉法、母子福祉法などの福祉六法の成立は60年代の半ばであるし、72年には老人医療費の無料化がスタートした。しかし、オイル・ショックの翌年には政府は「日本型福祉構想」(1974年)を打ち出し、「高福祉・高負担」の福祉、個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会の連帯を基礎としつつ、「民間活力」を基本とする、わが国独自の道を歩むことになる。80年代の「臨調・行革」路線によって実際に社会保障・社会福祉は「見直し」され、後退していく(年金制度の改悪、医療保障の後退、生活保護の「適正化」等々)。90年代に入り、「21世紀の高齢化社会に対応するための社会保障制度の総合的な見直し」の必要性が強調され、自助努力と高齢化にともなう国民の負担増が示される。
 こうした動きは、政府の地域政策(「コミュニティ―生活の場における人間性の回復」1969年)や大企業のコミュニティ対策と密接なつながりをもって展開され、前者はコミュニティ福祉として「自立自助・相互扶助」を強調し、後者は企業の社会的責任、地域と協調をうたいながら「企業社会」の形成につながっていく。住宅や教育、年金、公的扶助などについて論じる紙幅はないが、オイル・ショック以降の政策転換を鳥瞰する必要を指摘しておきたい。
 

6 新たな「生活の分岐点」の模索


 1973年を転換点として生活を考えるとすれば、それからすでに四半世紀が経過している。「歴史的現象」として現在までの生活の新たな分岐点を求めることが検討されよう。山崎によれば、「社会はほぼ十年ごとをひとつの時代として意識し、現在がどういう時代であるかに強い関心を払って生きている。『10年間』という言葉がこれほど頻繁にひとの口にのぼり、人生のリズムの単位として、ほとんど『一年』や『一ヶ月』と同じような重要性を持ったのは、今世紀が初めてのことであろう。」(24)と述べ、同時代史を書くために、時代の変化の意味を知るには、10年の時間を生きれば十分ではないか、という。時代の区切り方や、時代の分析には筆者とは論を異にするところが少なくないが、人間が現在を生きるために、時代を意味付けることの必要性は生活史研究にも共通する観点である。
 そこで、非常に荒っぽい仮説であるが、現代の新たな転換点を、85、6年ごろに設定することを提起したい。83年ごろから始まっていた地価上昇は、円高以降、狂乱高騰となって国民生活をその後のバブル景気に走らせ、財テクブームをもたらした。社会的には、「飽食の時代」の中で食べることへの関心がファッション化し、グルメ志向が個人のライフ・スタイルとして定着し、一方でファーストフードやファミリーレストランなどの外食産業の急成長をみる。
 1970年代初頭のドル・ショックとその後の二度の石油危機を、乗り切った日本経済は、80年代に入り、円高の進展、国際経済摩擦の深化、国債の累積による財政「危機」、産業構造のソフト化・高度化による産業再編成、といった課題に直面する。「現代」が「生活革命」によって登場したとすれば、1985年にはじまった急激な円高による経済社会の変化は産業の空洞化、「雇用革命」を特徴とする。ドル高是正を内容とした85年G5(プラザ合意)は、日本経済の急速な国際化をうながした。特に成長の著しかったアジアとの関係が拡大した。輸出大企業は、円高による採算条件の急激な悪化を克服するために、海外進出=多国籍企業化(25)への方向を強めた。とくに自動車産業の海外進出は、下請部品メーカーなどの中小企業の海外進出をも強く促し、産業の「空洞化」、雇用不安をもたらした。
 量産型の生産過程に基礎をおいた「日本的雇用」は、年功序列、終身雇用、企業別組合などを特徴とするが、企業の国際化は、情報化、サービス経済化と重層し、労働力の流動化、従前の熟練の解体を現象させながら雇用の再編を進めた。電電や国鉄の民営化、男女雇用機会均等法の施行は、こうした日本経済の質的な転換を反映した動きとして認識される。
 1985年前後の主だった社会経済の動きを箇条書きすると、次のようになる。

1)1985年3月 ソ連・ゴルバチョフ書記長選出、ペレストロイカ開始
2)1985年5月 男女雇用機会均等法成立、労働者派遣事業法成立(6月)
3)1985年9月 プラザ合意・円高時代
4)1986年4月 「前川レポート」・内需主導への構造転換
5)1986年4月 チェルノブイリ原子力発電所事故・地球規模の放射能汚染
6)1986年9月 東京都心部の地価急騰・地上げの社会問題化
7)1987年4月 JR発足
8)1987年6月 リゾート法(総合保養地整備法)施行
9)1987年11月 全日本民間労働組合連合会(「連合」)発足


 転換を象徴する社会経済事象は、85年のプラザ合意、雇用機会均等法などがあげられる。生活、環境への影響を重視すれば86年のチェルノブイリ原発事故があげられる。チェルノブイリは90年代初頭に具体化した「環境と開発」の論議につながる重要なポイントであり、「科学の政治化」(26)がもららす破局の事実を教える歴史の鏡でもある。また、東西ドイツの統合、冷戦構造が終結、ソ連消滅というグローバルな時代の推移を予兆させる事件であれば、86年をもって現代の新たなる転換点と認識する意味は深い。
 70年代半ば以降の日本の経済社会における構造的特質として指摘されてきた日本型企業社会が、80年代の後半から本格化する市場のグローバリゼーションの進展とともに、国際競争力の強化という基本方向にそって企業社会それ自体の見直し、再編が進行していく。こうした企業中心社会からの転換は、単に企業レベルの転換にとどまらず社会関係、ライフ・スタイルの転換をもたらす。

7 おわりに−今後の課題−


 「現代」のはじまりを、1973年のオイルショックからとし、さらに86年のチュルノブイリ原発事故を新たな生活の「転換点」として生活の歴史に位置づけることを論じてみた。これには、次のような仮説をよりどころにしている。ライフ・スタイルということばが、生活様式ということばに代わってもちいられた背景のひとつとして、階級や世代や文化の共有を基盤として成立する階層社会の変容を重視し、個人が保有する資産、職業、所得などの指標が、従来のような規定力を有しないという仮説である。また、生活を規定する経済条件とし、二つの変動期に、日本企業の海外進出、さらに多国籍化を軸にした論を展開したものである。しかし、試論では外部経済の変化と国民生活の関連を十分には展開できなかった。70年代、80年代の生活の特質は別稿にて論じたい。また、生活「転換点」をフレームにした生活史分析の具体的な試みについてはこれからの課題とせざるを得ない。筆者らが積み重ねてきた炭鉱離職者の生活史分析に生かしていきたい。
 なお、本稿では注目を促すにとどまったが、70年代の生活の総体的な「再編」が進むなかで、それまでになかった新しい住民運動が展開されている。一つは、自分史を軸にした「ふだん記」運動である(27)。この運動は、1970年の半ば頃にから急速な高まりをみせ、今日にいたっている。同じ時期に、北海道の「民衆史掘起こし」運動が起こっている(28)。この運動は、庶民の歴史を記述する歴史運動から大きく展開をみせ、民主主義、民族文化、多民族連帯の運動へと広がった。さらに、早乙女勝元氏の『東京大空襲』(1971年)の発行を契機に、大阪、神戸、名古屋など「全国の空襲を記録する運動」(29)がある。これらは、研究者・教師などを中心の運動が当初はみられたものの、庶民が自らの体験を軸に事実を語り、歴史と向かいあう姿を見せる。それは現在の自分をよりよく生きるために、自分の人生の位置づけを知るための姿でもある。これらの運動は、かつての住民運動がおもに政治的、思想的な紐帯で結ばれていたのに対し、活動の根底に地域をおき、身近ないわば等身大の課題を運動の柱としたところに特質がある。「ふだん記」「民衆史」「空襲記録」などの諸運動の歴史的な意義を問うとともに、ここに記述された「生活」記録を生活史研究にどう切り結んでいくか、その課題を明示してひとまずは本試論を閉じることとする。
 



(1) 半澤廣志「生活史研究の推移と動向」 国民生活センター『国民生活研究』第37巻第4号、1998年、p35
(2) 一番ヶ瀬康子は、生活問題とのかかわりで、個人の生活歴と生活問題の歴史的展開との関係把握が不充分であることを、早期に指摘している。一番ヶ瀬康子・持田照夫編著『生活の歴史』(講座現代生活研究第一巻)ドメス出版、1972年、pp24〜27参照
   また、ライフ・ヒストリー研究は、個人の社会への対応、対処を中心アプローチをしてきたことを、ラングネスは次のように述べている。「人間の発達を観察するとき、人類学者はライフ・パッセージ研究とライフ・ヒストリー研究という主要なアプローチを用いてきた。ライフ・パッセージ研究は、社会の側の要件を強調し、ある集団の人々が若者をその社会の独立可能な成員とするためい、いかにかれらを社会化し文化化するかを示している。ライフ・ヒストリー研究は、それとは対照的に、社会が個人の動向にいかに対処するというよりむしろ、個人が社会にいかに対処するかという個人の経験と要件を強調する。」L. L. ラングネス、G. フランク、米山俊直、小林多寿子訳『ライフヒストリー研究入門(伝記への人類学的アプローチ)』ミネルヴァ書房、1993年、p107
(3) 色川大吉『自分史−その理念と試み−』講談社、1992年。色川大吉『昭和史 世相篇』小学館 1994年。鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史−1945〜1980年−』岩波書店、1991年。鶴見俊輔『ひとが生まれる−五人の日本人の肖像−』筑摩書房、1994年
(4) ケン・プラマー 原田勝弘、川合隆男、下田平祐身監訳『生活記録の社会学−方法としての生活史研究案内−』光生館、1991年
(5) 池田隼人総理大臣は、経済成長、国民総生産、生活水準などを政治言語の主要な語彙として用いた。鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史−1945〜1980年−』岩波書店、1991年、p15
(6) 生活水準は、あるべき生活内容を指して規範的意味で使われる場合と、単に生活内容の実態を示す記述的意味で使われる場合とがある。それぞれstandard of living, level of livingに相当する。規範的生活水準は、その社会集団の人々が希求する生活水準であり、文化的・歴史的諸条件に規定され、多分に心理的要素をも含む概念である。したがって、その水準を客観的手続に基づいて測定することは、実態的生活水準に比べてはるかに困難な作業であり、しかもそれを通時的・共時的に比較することにどこまで意味を求めうるかも疑問である。実態的生活水準の測定には、このような原理的ともいえる計測上の困難は認められない。しかし、人々の生活内容は複雑多岐にわたり、きわめて多次元的なものだから、それを単一の指標で表現しようとする試みにはどうしても限界がある。
(7) 「生活様式という概念は多義的概念である…<中略> 論者がいかなる意味で使用しているのか、把握せずに使用すると了解に失敗する。ライフスタイル概念は英語の乱用語、概念の不明瞭性が顕著。広義の生活様式は、生活文化と同義である。狭義の生活様式は、生活手段の利用と配置を問題にする。」(橋本和考『生活様式の社会理論』 1987年 増補版 1994年)
(8) 平成10年版 『労働白書−中長期的にみた働き方と生活の変化』 要約
(9) 平成9年版 『生活白書 働く女性−新しい社会システムを求めて』では、就労タイプ別に女性の生涯賃金の格差を計算している。女性が正規雇用で就業を継続した場合の生涯賃金は、2億3600万円であるが、中断再就職では、1億733万円、中断・パートでは5100万円。その損失率は、就業継続に比べて、前者で、26.7%、後者では、78.4%にもなる。こうした経済、コスト重視の近年の傾向は、「結婚は『家庭株式会社』の共同経営」「専業主婦はメルセデス・ベンツ」などに顕著である。(八代尚宏『結婚の経済学』二見書房、1993年)
(10) 生活様式の転換に関する国際会議(スイス 1978 イタリア 1979)では、「支配的生活様式」Dominant Ways of Life:DWL と新たに「選択すべき生活様式」Alternative Ways of Life:AWL とに区別して議論する。成瀬龍夫『生活様式の経済理論−現代資本主義の生産・労働・生活過程分析−』御茶の水書房、1988年
(11) アメリカ的生活様式の特徴を要約すると、
1)大量生産・大量消費体制の確立のもとで形成された消費生活様式
2)生活手段の全面的な商品化とその個人的所有、個人的消費を特色とし、私的個人的消費が絶えず優先的に発展し、社会的共同消費手段は私的個人的消費に対して補完的役割を持つような生活様式
3)アメリカ的生活様式の成立の結果、消費主義的な社会階層意識を生み出し、「中間」層意識の形成基盤となり、「新中間層」の生活様式を理想モデルとするイデオロギーをつくりだした
4)一般労働者大衆の恒常的な債務生活構造を出現
5)消費者運動を生み出す。
   成瀬龍夫、前掲書、pp68〜71
(12) 馬場康彦『現代生活経済論−真の「豊かさ」とは何か−』ミネルヴァ書房、1997年、p64
(13) 同上書、p63
(14) 同上書、p6
(15) 平成10年版『労働白書』では、「勤労者世帯の実収入、可処分所得及び消費支出の格差の推移を年間収入五分位階級の第I階級と第V階級との格差でみると、第1次石油危機による大幅な物価上昇の動きが落ち着いてきた1977年以降、格差は拡大傾向を示していたが、1980年代後半から1990年代前半にかけて、反転して縮小傾向となっている。しかし、1996年以降、再び格差が拡大をしている。この様な格差の拡大・縮小の動きは、主に世帯主の収入の動きを反映しており、前述した企業規模の賃金格差の動きとおおむね似た傾向となっている。」p281 また、レスター.C.サローは、1973年から92年までの実質賃金と所得の変化について、アメリカでは男性の賃金は、インフレを調整した実質ベースで73年から下がりはじめ、この間の20年間、平均で11%の低下、とくに低所得層ほど減り方は大きくなり格差の拡大を論じる。しかし、日本の場合は、「今のところ、アメリカのように実質賃金は下がらず、ヨーロッパのように失業者は急増していない。」とする。『資本主義の未来』TBSブリタニカ、1996年、p58
(16) 色川大吉は、柳田の『明治大正史 世相篇』の社会変動分析の指標を再検討して、現代のフォークロア研究に有効な観点として、眼に映ずる世相では、「禁色」「流行」「仕事着」「時代の音」。食物の個人自由、家と住み心地では、「個人自由」の推移。風向推移では、「田園の新色彩」「自然観の推移」。故郷異郷では、「街道の人気」「村の昂奮」など、興味深い視点をあげている。
   現代の世相史研究でも、「社会変動を制度やイデオロギーの変化においてみるのではなく、民衆の情動(感覚の変化)においてつかまえる。」ことが民俗の「外形形象と心意現象とを結ぶ環」として重視する。色川『昭和史世相篇』p16
(17) ブレトン・ウッズ体制とは、第2次大戦後、アメリカとイギリス両国が中心となって構想し設立した国際通貨体制の名称。1944年アメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズにおいて連合国通貨金融会議が開催され、通常ブレトン・ウッズ協定Bretton Woods Agreementsと呼ばれる二つの協定が締結された。この協定にもとづいて、46年6月に国際復興開発銀行(いわゆる世界銀行、IBRD)がその業務を開始し、翌47年3月に国際通貨基金(IMF)が同じく業務を開始した。ここに戦後の国際通貨体制を支える中心的機構が確立されたのである。歴史学研究会編『戦後50年をどう見るか』青木書店、1995年、p29
(18) 日本は、60年代には、海外経済協力基金、海外技術協力事業団、海外技術者研修協会、アジア開発銀行などを設立し、東アジアを中心に円借款供与を実施し、この地域でも重工業製品輸出市場を確保していく。70年代に入ると、直接投資が急増した。1971年には、8.6億ドルだった民間直接投資は、72年には23.3億ドル、73年には35億ドルにまで跳ね上がる。1972年は「投資元年」と呼ばれた。歴史学研究会、同上書、p168
(19) 1989年代に「経済大国」となった日本は、それとは裏腹に「生活小国日本」という、まったく対照的なイメージが形成されつつあるが、この二つはどのように両立しているのかを考察している。中村政則『現代史を学ぶー戦後改革と現代日本』吉川弘文館、1997年、p208
(20) 「原油輸入量(73年10月〜12月)は、前年同期比7%減であって、石油不足・モノ不足は『つくられたもの』という側面が強かった。」歴史学研究会、前掲書、p190
(21) 山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』中央公論社、1984年、p16。山崎は、明治以来、百年にわたる近代化と工業化の歩みのなかで、国家のイメージが国民の意識を決定した力は、実に計り知れないものがあった、と述べている。また、ラミスは、「近代日本をめぐる重大な神話のひとつは、明治の家族制度を『封建的』ないし、『伝統的』とするものだ。」として、明治の計画立案者たちの「家族国家イデオロギー」について論考している。(C.ダグラス.ラミス 『内なる外国−「菊と刀」再考』 ちくま文庫、1997年 p210)
(22) 「物やサービスを供給してお金をかせぐという機能は、日本の会社も外国の会社も同じである。しかし、日本の企業には、もしかするとそれより重要かもしれない社会を統制するというもう一つの機能がある。日本の大企業は、欧米の企業がしようと思っても決してできない方法で、人々のあいだの秩序を保っている。」カレル・ヴァン・ウォルフレン、篠原勝訳 『人間を幸福にしない日本というシステム』毎日新聞社、1994年、p58、
(23) 江口英一編著『生活分析から福祉へー社会福祉の生活理論』 光生館、1987年、参照
(24) 山崎正和、前掲書、p8
(25) 日本企業の多国籍化は、1960年代末から日本企業による海外直接投資が活発化し、対外投資自由化に刺激されたこともあるが、基本的には輸出市場の確保と国内賃金高騰をさけて、東南アジアに製造業分野で進出したものが多い。
  野村総研の分析によれば、日本にとって、1986年は「多国籍企業元年」ともいえる。労働者教育協会編『産業「空洞化」と雇用・失業問題』 学習の友社、1985年、p15
(26) 七沢潔は、チェルノブイリ原発事故の原因究明を行うなかで、ソ連一国を越える「真相を隠す側」の巨大な構図を明らかにする。原発保有国の出資で運営される国際原子力機関(IAEA)の情報操作、政治力学の問題性を明らかにしている。七沢潔『原発事故を問う−チェルノブイリから、もんじゅへ−』岩波新書、1996年。チェルノブイリ事故については、月刊誌『技術と人間』が数多くの特集を組み、貴重な資料を掲載している。
(27) 色川は、橋本義夫(ふだん記運動の創始者)の庶民の独創的な活動をつぎのように評価している。「急激な景気の後退、石油不足や高騰による生活上の大混乱は、日本国民に経済成長時代の終焉が近いことを教えた。これを機会に人びとの目が外から内へ、物から心へと移行し、内省の時代に向かっていった。日本の庶民が、戦争、敗戦による荒廃、経済復興、成長への前進と、走りに走り続けてきた自分の過去をふりかえって、改めて自分の生きてきた意味を問い直したい欲求を表しはじめた。」 色川大吉『自分史−その理念と試み』講談社学術文庫、1992年、p85
  「自分史」運動は、1975年ごろから大きな高まりをみせ、各地グループ30余、メンバーによる個人文集、自分史本は270冊を越える。これらの著者は実に多様で、旋盤工、鳶、大工、八百屋の主人、バスガール、看護婦、家庭主婦、電気商、僧侶、農夫、運転手等々、あらゆる職種、階層におよんでいる。ふだん記関西グループの発行では、94歳の中村文三の自分史などもユニークなものの一つである。『平和好きやねん−われ九十四歳−』ふだん記新書202、1988年民衆
(28) 民衆史掘起こし運動では、北海道歴史教育者協議会「はたらくものの北海道百年史」(労働旬報社、1968年)「北海道の民衆史掘起こし運動『掘る』」(あゆみ出版、1977年)などを参照。
(29) 「空襲・戦災を記録する会、全国連絡会」は、1970年から毎年開催。全国19都道府県、30都市から50余の市民団体が集まる。京都では1971年から京都宗教者平和協議会が市内の空襲記録を開始、74年には『かくされていた空襲−京都空襲の体験と記録』(汐文社、1974年)を京都空襲を記録する会・京都府立総合資料館から刊行している。

<上記以外の参考文献>
・労働運動総合研究所編『「日本的経営」の変遷と労資関係』 新日本出版社、1998年
・中村政則『現代史を学ぶ−戦後改革と現代日本−』 吉川弘文館、1997年
・三浦雅士『私という現象』講談社、1996年
・宮部修『インタビュ―取材の実践』晩聲社、1997年
・北澤毅、古賀正義編著『<社会>と読み解く技法−質的調査法への招待−』 福村出版、1997年
・歴史学研究会編『オーラル・ヒストリーと体験史(本多勝一の仕事をめぐって)』 青木書店、1988年
・歴史学研究会編『事実の検証とオーラル・ヒストリー(澤地久枝の仕事をめぐって)』 青木書店、1988年
・シャロン・カウフマン 幾島幸子『エイジレス・セルフ−老いの自己発見』 筑摩書房、1988年
・米山俊直、橋本敏子『生活学のプラクシス−生活史による「新大阪」の研究−』 ドメス出版、1990年
・庄司興吉編著『転換期の社会理論』 恒内出版、1985年
・石川淳志、他編著『社会調査−歴史と視点』 ミネルヴァ書房、1994年
・中野卓、桜井厚編『ライフ・ヒストリーの社会学』 弘文堂、1995年
・庶民生活史研究会編『同時代の生活史』 未来社、1989年
・ダニエル・ベル『知識社会の衝撃』 TBSブリタニカ、1995年
・早稲田大学人間総合研究センター『炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再形成−旧常盤炭砿KK員の縦断的調査研究、1985〜2000年−』
・塩原勉、飯島伸子、松本通晴、新睦人編『現代日本の生活変動』 世界思想社、1991年

付記 本試論は、1995年度の佛教大学特別研究助成による研究成果の一部である。記して感謝の意を表したい。


A Study of Life History : Meaning in Life Transformation
TAKAHASHI shinichi
(たかはし しんいち 応用社会学科)
1998年10月14日受理

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