炭鉱労働者の履歴と広域移動

1990.3 佛教大学社会学研究所紀要  第11号


 

はじめに

1炭鉱初期の労働者

2戦前の労働者給源と流動性

3戦時体制下の労働給源と戦後の労働者供給

4「合理化」と雇用形態の変化

5流動化政策と階層分解

6移動層の定着化

おわりに


はじめに

 
 昨年の夏に、筑豊の炭住(炭鉱住宅)居住者の聴き取り調査しての帰路、炭鉱町として栄えた町の旅館に宿泊した。そこの従業員のおばさんに、著者の調査の話をしていたら「まだ炭住はあるとですか」と、驚いた様子であった。筑豊の人々にもすでに炭鉱は遠い過去の世界になっているのであろうか。
 研究対象としても、石炭産業とその労働に関するものは、もはや経済史、産業史、経営史、労働史など歴史研究の課題となっている観がする。
 しかし、今日でも国内の石炭需要は1億トンを越え、十年後には1億6千万トンが見込まれているにもかかわらず、第八次石炭政策のもと3年間で7千人以上の炭鉱労働者が失業し、その4割はいまだに就職できない現実がある。炭鉱つぶしは今も進行しているのである。
 本稿は、こうした炭鉱失業者の問題を、戦後石炭産業の解体期(1955-70)(註1)に集中的に発生した閉山、失業、再就職の過程を再検討することによって、失業・離職の意味を社会学の視点から考察するものである。
 日本経済は、80年代半ば以降の円高不況の克服をめざしての構造調整政策、企業のリストラクチャリングが強烈に行なわれ、その結果雇用・就業構造の転換が進行した。具体的には大量の労働異動(配置転換、出向)と雇用の不安定化(派遣労働者、臨時、パートタイマー)がそこにみられる。「新たな労働力流動化時代」の到来である。
 60年代の「労働力流動化」は、炭鉱、農業という低成長部門の「余剰」労働力を排出し、製造業を中心とする高成長部門への移動を「円滑」におしすすめ、経済の「高度成長」に貢献した。人々は消費生活手段やサービスの豊富さ・多様さを享受し、「飽食の時代」「豊かな時代」を迎えたのである。こうした「富裕化」現象の裏面で、労働の苛酷さや労働の無内容さ、不安定化が深化し、そのことが家族、地域、学校、職場等で複雑な社会問題を発生させている。
 少し、先を急ぎすぎたようである。まず、炭鉱労働のあゆみから振り返ることにしたい。

1 炭鉱初期の労働者

 明治前の石炭の利用は、家庭の燃料として用いられていたが、18世紀の始めには製塩用として利用価値が高められ、その他瓦焼き用、漁船のかがり火等にも利用されるようになった。
 このように石炭の使用が広がるにつれて、石炭を掘る人も増え、専業または副業として多くの農民がこれに従事することとなり、また、人を雇って営業とする者も出てきた。当時の採炭方法は、いわゆる「タヌキ掘り」であり、つるはし一丁で小さな坑道を四つんばいで出入りし、石炭篭をひきまたは、背負いで運びだしていた。
 このように、初期の炭鉱では農民個人の採掘に始まるが、当初貧窮化した農民に限定されていた。石炭が商品としてめだつ頃徐々に農閑期の副業として、また耕作農地が少ない者、日雇い稼ぎ以外に生活手段のない者等が加わり、また洪水、干ばつなどの自然災害による窮乏化した農民が採掘に従事することになった。このことから使用者は飢饉を救ったとして雇用者に対する差別観を発生させ、炭鉱労働者への差別意識を定着させることとなる。
 藩財政の窮乏の救済手段として、商品化しつつあった石炭に着目、藩の統制下(註2)におかれるようになり、採掘量の増加に対処するために労働者の給源を広い地域から求めることとなり、多数のよそ者(旅人と呼ばれていた)が流入するようになった。それらの中には前科者も居り、Aまた、採掘技術をもった者も受け入れられ、彼らは各丁場(炭鉱のこと。石炭山、間符、石間符とも呼称した)を転々としていた。
 旅人の雇い入れには、規制が設けられ、農民は原則として独身者に限り、世帯もちの者でも農事に差し支えなければ雇い入れられたが、旅人の多くが長い流浪の生活、あるいは村落の機構等からの逃亡者等であったため、その管理は厳重を極めその後の納屋制度(註3)へと移行してゆくのである。こうした雇い入れの形態から、仕事の分化が起こり、採炭、仕繰(坑道に支柱を入れること)等の熟練を要する仕事には旅人の多くが従事し、岡出し(坑内から石炭を運搬する仕事)等の単純な仕事は農民があたった。
 明治維新は石炭産業が近代産業への脱皮をはかる端緒となった。明治2年(1869年)政府は藩から石炭鉱業を解放し、自由採掘を許す「鉱山解放」の布告を発し、ついで明治5年(1872年)に「鉱山心得」により政府の所有に属するものとする鉱山王有制を宣言した。さらに翌年(1873年)にはわが国最初の鉱山法として「日本坑法」が発布され、重要鉱山の官収官営、その他の民間人への自由掘りとした。福岡県では、明治5年の仕組法、芦屋、若松の両会所の廃止に始まり、6年に三池炭鉱の官有化(工部省鉱山寮三池支庁)が行なわれた。
  明治初年は、農業を基盤とする封建的な経済体制がほとんど変化する事なく継続しており、そこには資本制生産の前提となるべき自由な賃金労働者も現出していなかった。さらに、炭鉱労働が地底の苦役作業であり危険をともなうことから労働力の募集獲得は困難をともなった。(註4)このため高島、三池、幌内等の炭鉱では、最も手近な方法であり、しかも低賃金で強制労働による能率を上げる労働力として囚人を使用した。
 三池炭鉱は明治22年1月に三井に払い下げられたが、民間払い下げ後も囚人の使用は継続された。この年の全坑夫3,103名のうち囚人は2,144名で約7割である。囚人一人あたりの出炭量は、筑豊の坑夫の2倍で、賃金は逆に半分であったとされる。いかに囚人労働が中心であり、酷使であったかがうかがわれる。(註5)
 炭鉱労働における囚人労働と旅人の使用は、その後における炭鉱労働の性格に強い影響を与えた。かれらの生活態度も「飲み」「打つ」「買う」であったことから「炭鉱太郎」「石山党」「下罪人」(註6)等の蔑称が定着し、その偏見と俗称は敗戦のころまで根強く残っていた。
 炭鉱の近代化とともに炭鉱労働者メの呼称は変遷したが、これは、鉱夫生活の変遷過程を物語るとともに彼らの社会的地位を物語る。鉱夫という呼称が、鉱業に関する法律で明文化されたのは、「鉱業条例」(明治22年)が最初である。鉱員と呼ばれるようになったのは、太平洋戦争の末期ごろからである。(註7)

2 戦前の労働者給源と流動性

 農民個人の採掘に始まった炭鉱労働者は、しばらくの間、地元の貧農の内職としてあてられていたが、次第に商品加されるにともない、農民の二、三男の「村坑夫」の出現となった。明治20年代になり、経営規模の拡大と(註8)、需要の増大とに伴い、多数の労働力が必要となり、当然村坑夫だけでは不足し、さらに広範な地域から労働力を求めることとなる。したがって自然流入を待つだけではなく、積極的に他県へも足を延ばし、募集を開始した。この結果、明治39年における筑豊の主要炭鉱の労働者を出身県別にみると、県外出身者の占める割合は平均で56%を占め、過半数が県外出身者である。その多くは九州の各県はもちろん、四国、中国の各県にまたがっている。九州では、宮崎、鹿児島、熊本が多い。

    表1 筑豊主要炭鉱の出身県別労働者数(明治39年)

 概して、大手炭鉱ほど他府県からの流入割合が高く、新入のように78%を示すところもある。この傾向は昭和期にはいっても続いた。(註9)
  この時期の炭鉱労働者は故郷を離れて一定地に定住する者はすくない。1年間の入山100に対し、金属鉱山では退出61であるが、炭鉱では78を示し、頻繁に移動していることがわかる。筑豊の主要炭鉱でこのことをみると、平均で入山100に対し、退出は106である。このことは当然平均勤続年数の低下につながり、表のように、筑豊の主要炭鉱のうち在籍年数1年未満が50%以上を占めているのは12鉱、同じく40%以上が5鉱あり、いかに勤続年数が短いかがわかる。平均でみても、1年未満が52%、2年未満21.3%、3年未満11.6%、3年以上は14.6%となっている。このような高い移動率は(註10)、当時の納屋制度下の環境の劣悪を背景に、低賃金、苛酷な労働過程を物語る。

    表2 筑豊主要炭鉱の勤続年比率

 その裏付けとして退職理由をみると、本人の申し出による者は、全体の51%弱で、その他は逃亡による者31%、傷害、賭博等による解雇が13%、その他5%となっている。(註11)
 その後、大正から昭和にかけて、定着性が高まり、一定の定住化が見られるようになり、二代目の炭鉱労働者の誕生と、第二の故郷化が進む。こうして炭鉱を中心とした都市化が進とともに、依然として農村出身者を主体とする炭鉱労働者が形成されてゆく。


3  時体制下の労働給源と戦後の労働者供給

 昭和4年の世界大恐慌の波に襲われ、石炭業界も不況にあえぎ、大量の解雇者を出すに至ったが、6年の満州事変、7年の上海事変を景気とした軍需景気に好転の兆しをみせ、12年日中戦争の勃発とともに、戦時下の増産体制へと向かった。同時に労働者の召集が強化され、増産に対する労働力不足に加え、軍需工場の工員増加の影響も加わり、深刻な募集難となった。 
 その対策として労働時間の延長緩和と、朝鮮人労働者の移入を図り、14年10月から移住が始まった。(註12)以降2年間で筑豊では20,060人(全国の25,835人のうち77.6%)に達した。しかし生活の違いと過酷な地下労働に耐えきれず、暴動を起こし、または、移入後の同じ2年間に44%が逃亡し、各地の飯場や軍需工場へ移住したと記録されている。同じ14年には、一度禁止されていた女子の入坑(註13)が認められ、戦況の発展とともに増産体制は拡充された。
 時局の緊迫化にともない、労働力の不足は益々深刻化し、徴用者、勤労報国隊、学生まで投入されたが、不熟練なかれらには坑内労働は適さず、生産はあがらなかった。さらに、18年3月から中国人、19年9月からは朝鮮人に対する強制連行が実施され、また同時に米、英、豪軍の捕虜も投入され悲惨な歴史を記録することとなった。

  表3 筑豊主要炭鉱朝鮮人稼働者数
  表4 植民地労働者の増加

 8月15日の敗戦とともに、急速に強制的動員体制は崩壊し、連日のように捕虜に対する物資投下が続けられ、支配、被支配関係が逆転した。解放された朝鮮人、中国人は、長い間の抑圧に対する憤懣を爆発させ、各地に紛争が発生した。これに対処し占領軍は急速に帰国させることとし、9?10月にかけて完了した。これより早く8?9月には徴用者、一般労働者、学生等も離山し、敗戦時の半分(昭和20年に39万人であった労働者は同年11月には21万人まで減少)となってしまった。あわせて風水害(昭和20年9月に西日本一帯を襲った台風)による水没坑120坑を数えた筑豊は、炭鉱自体が崩壊寸前の様相を呈した。
 しかし、戦後復興のために石炭生産を再び軌道に乗せるため、20年11月「炭鉱労務者緊急充足実施要綱」を決定し、緊急に13万人を充足するため、主食、衣類、酒、煙草の特配を誘引手段としオて、復員軍人、戦災者、引上者を中心に充足を図った。その結果、戦前の労働力の構成に大きな変化をもたらした。
 まず労働者の出身地の変化をみると、戦前の農村出身を中心とした九州、中国、四国の割合が減り、逆に戦災地域である兵庫、大阪、愛知、東京等の割合が急激に増加し、戦災、復員者等の流入を物語っている。

   表5 戦前、戦後の全九州炭鉱労働者出身地構成比

 こうした新しい労働者は前職別にみると、戦前では約50%が農村出身者であったのに対し、戦後では約19%に低下し、工業出身者と引上、復員者等が急激に増加している。 
 さらに、学歴別にみると、小学校卒の急激な低下を筆頭に、それ以下が低下し、高小卒以上の中等教育を受けた者が増加し、大きな変化がみられる。このことは戦後の民主化の波とも重なって炭鉱の労働運動の高揚の要因ともなっている。(註14)

   表6 戦前、戦後の炭鉱労働者の教育程度別比較

 昭和21年12月、戦後の産業復興の原動力である石炭と鉄鋼の増産に集中する「傾斜生産方式」の実施にともない、労働者の増加と増産体制は軌道にのったが、対日占領政策の転換にともない、労働力の投入による増産体制を、機械化等の「合理化」にノよるよう指示され、さらに24年のドッジ・プランの実施にともなって炭鉱は重点産業からはずされ、経営の自立化が要請された。人員の削減が厳しくなり、筑豊の炭鉱労働者は23年の152,363人の最高から24年には131,453人、25年には120,292と急激に減少した。25年6月、朝鮮戦争が勃発し、日本全体が朝鮮特需ブームにおおわれたため、中小鉱乱立による一時的人員増をみた。
 しかし、朝鮮戦争が終わった28年から石炭恐慌が起こり、本格的な「合理化」が進められた。この過程の中で大量の失業者が発生し、筑豊地域は「黒い失業地帯」と呼ばれるまでにいたり大きな社会問題に発展した。
 この間の移動が大手から中小への移動、中小から中小への再移動であり、中小炭鉱の労働者が実質的には、失業状態にあることを意味する。

  図1 中小炭鉱業者の流動の流動系統図

 炭鉱の「合理化」が本格的に展開するのは、昭和30年代とともに始まったととらえることができる。昭和30年10月の「石炭合理化臨時措置法」の施行による、非能率炭鉱の買収が始まると、予想以上の被買収炭鉱が出現した。34年までに74鉱、22,967人の人員整理が行なわれた。しかし反面、この当時神武景気が出現し、石炭産業最後の好況となり雇用の拡大がなされたため、人員整理もさほど目立たなかった。この好況のあと、34年ごろより「エネルギー革命」が浸透するなかで大手炭鉱でも人員整理を強行、この間32年から38年めでは、年間約1万人台の減少を続けており、特に、37年から雪崩的に閉山が起こり、37年から38年にかけては、この1年間の減は13,000人に達している。

   表7 筑豊の石炭鉱業推移

 昭和48年11月29日、筑豊最後の坑内掘りの貝島大之浦炭鉱の閉山(貝島炭鉱の完全閉山は、昭和51年)により、約一世紀にわたる石炭鉱業の歴史に終止符をうった。
 こうした炭鉱の「合理化」は単に炭鉱のみならず、人間をも含めたスクラップ・アンド・スクラップであったと言わねばならない。昭和30年には、275の炭鉱と11万6千人あまりの炭鉱労働者が筑豊には生活していた。これは筑豊の就業人口の三分の一にあたり、他の労働者もこの石炭産業との関連のなかで生きていたのである。地域社会にこれほど打撃をあたえた事態は過去に例を見ないであろう。


4 「合理化」と雇用形態の変化

 筑豊の炭鉱労務形態の特徴は、雇用形態の推移にあるといえよう。すなはち、雇用形態の構成が大手の閉山とともに「常用」と「請負」vが逆転している。大手の合理化の一環として直庸労務者の減と、請負の増という、特徴が指摘できる。 それでは、常用労務者の状況を大手、中小炭鉱でみると、大手の合理化、第二会社の中小化により、39年を境に40年以降中小が大手を上回る。このことは、大手の合理化は、常用労務者を一部整理に止め、第二会社に吸収し、臨時、請負労務者はすべて解雇、契約解除としたため、全労務者数の減少は大きく、反面第二会社の中小では、常用労務者が増加するという現象を示している。
 炭鉱の景気の変動に対応して、生産力の調節弁として臨時、請負が重要な役割を果たしてきた。大手を主体に人員整理の肩代りとして請負の雇用が増大するんは36年にピークをみる。

   表8 筑豊・雇用系大別労務者の推移

 この筑豊の多数を占める請負労務者を職種別に使用状況を見ると、その多くは「坑内員」で、大手の60%に達し、中小では約75%を占めている。そのうち「掘進」が各50%を占めているが、中小では合理化の進行とともに高率化し、「坑内員」の75%を占めるにいたっている。このことは、名目上請負と区分されたに過ぎず、実質的に炭鉱を支えている主力であったとみても過言ではあるまい。
 要約すると、A筑豊の炭鉱の合理化の過程では、大手ではまず常用労働者が先に減少し、中小では逆に請負が先に減少している。大手における請負残留は経営の合理化を示し、旧来からの下請け制度の延長であり、炭鉱企業の基本的体質を反映したものである。(註15)

    表9 地域別合理化解雇者の動向推移

 「合理化」による解雇者の態様を表9から、地域別に対比してみると、筑豊地域は九州に比べて「就業決定者」が「他産業」への転職者が九州の半分以下である。逆に「就業未決定者」は筑豊に多い。これは先行き不安のため炭鉱からの転職を考えると同時に、転職に対する不安と、その対象となる就労先、企業が少ないためである。また、かれらが現在住んでいる土地、生活環境に対する執着心があり、それを護るための方策への混迷を象徴している。
 このような、雇用形態の変化をみせながら筑豊はどのような課題をかかえて推移していったのであろうか。
 年齢構成の特徴
労働移動の主体的客体的な条件は本人の年齢、家族構成、学歴、前職等が影響を及ぼす。特に、労働者の年齢はその中心的なものと考えられる。
 常用労務者の年齢構成を表77からみると、閉山とともに離職した者のうち、若年層は多産業にノ転職し、また、先行き不安からの退職者も若年層に集中するため、残留層は高齢化の様相をみせている。平均年齢では、26年の33.2才に対し、48年では43.2才っと10才の上昇となり、「45?49才」は全体の23.8%となっている。

    表10 常用労務者の年齢構成の推移

 人口の推移
 筑豊の人口は、昭和30年を頂点として、以前の増加から減少へと移行し、他に類例のない減少率を示しつつ、急落を続けた。40年以降石炭合理化が峠を越すとともに、その減少もやや鈍化している。この減少は地域の経済が石炭産業に対する依存度が高かったところほど減少率が著しい。炭鉱の閉山による離職者の流失はもとより、直接間接を問わず、関連した商工業等からの流出も見逃せない。いずれにしても、80万人近くの人口密集地で、15年のうちにその人口が半減するという事実は余りにもドラスティックである。
 この間の減少は、筑豊の各地区、各市町で例外なく男子の減少が女子を上回り、労働力の喪失を意味するとともに、その後の地域振興に多大な影響を与えた。炭鉱に代わる企業誘致に際し、女子雇用型の企業立地が中心となったのもそのことの反映である。人口の減少は市部、郡部を問わず一方的な減であるが、世帯数でみると、表84のように市部では世帯構成員の転出による減少であり、世帯数の変化はない。郡部では、閉山による炭住からの家族ぐるみの移動であり、世帯数も減少している。

  表11 筑豊における人口の推移

  こうした人口の流失は結果として、人口の高齢化、世帯員数の減少を急激にもたらし、老人・家族問題として地域の衰退に拍車をかけることとなり、そのことが新たな流失をもたらす要因ともなっている。
 生活保護の推移
 生活保護は、労働不能の心身障害者や老齢者世帯をその対象としているが、筑豊では合理化の進展とともに拡大する窮民層の救済に充てられ、労働能力をもつ生活保護世帯がその中心を占めることとなった。図96は保護率の推移を地区別にみたものである。33年以降急激に上昇し始め、炭鉱の閉山の深刻さを裏付けている。炭鉱失業者が地域内での再就職が不能であり、特に中高年層では、他産業転職に対する生活、職業上の不安、子供の学校、そして炭住の閉鎖的生活環境から離脱することの不安、そうした諸条件が拠り所を喪失させ、精神的な荒廃をもたらし、勤労意欲を低下させる。また、地域ぐるみの生活保護は、受給への抵抗感(註16)を失わせ、33年以降加速度的に保護率は上昇した。39年をピークに以後減少しているが、いまだに高率である。
 この結果、増大する社会保障関連の支出によって、地方自治体の財政危機は一層深刻なものとなる。

  図2 地域・地区別生活保護率の推移


5 流動化政策と階層分解

 昭和28年から30年代の始めにかけて、大量の失業者が発生したが、かれらのうち過半数の労働者は退職金も支給されず、失業保険さえ受給できないものが30-40%近くもいる状態のなかで、かれらはまず生活をするというよりも生きるための収入を得る道を考えねばならず、再就職口として「小ヤマ」を転々とわたりあるくか・「拾い仕事」をして不安定な仕事をしながら、そのうちに失業対策事業へ就労する者と、生活保護を受給する者とに移行しながら地域に滞留していった。
 このことが顕著になった昭和34年ごろ、各方面から本格的対策が要請されるにいたり、政府は34年9月に石炭鉱業離職者に対する応急措置について閣議決定(離職者吸収のための鉱害復旧事業を追加施行するとともに、「広域職業紹介の実施について」を職業安定局長から通達)した。一方、34年の10月には、日本石炭協会が「石炭鉱業の合理化計画について」(昭和33-38年に6万人のフ人員整理を計画)を発表。さらに、11月には、日本経営者団体連盟が「石炭産業の将来と離職者対策」(昭和34-38年の5年間に、大手6万人、中小3万7千人の計9万7千人の減少を見込み、要転就職者6万2千人のうち、7千人を系列会社、3万4千人を職業訓練等をへて他産業、そして2万1千人を公共事業に吸収する)を発表して離職者の対策を政府に要請した。
 政府はこうした要請に応えるかたちで、昭和34年の12月に「炭鉱離職者臨時措置法」を施行する。されたが、この法律の内容は、広域職業紹介、炭鉱離職者緊急就労対策事業及び特別の職業訓練の実施等の職業安定対策の推進と、これを側面的に補完するための各種再就職援護措置を行なう炭鉱離職者援護会(36年に雇用促進事業団となる)の設立との二大支柱によって構成されるものであった。すなわち、炭鉱から排出される失業者を産炭地に滞留する部分と、広域直業紹介のルートで他地域に移動する部分とに二分することになる。

  表12 合理化炭鉱離職者の産業別、地域別再就職状況 

 滞留層は、「炭鉱労働という特殊な身体条件、生活状態になっているため、一般への順応が容易でなく、職業転換、他地域への移住が困難である」、移動層は「炭鉱地域の経済が、離職者の失業問題を解決するには困難であること、故に炭鉱以外の他地域への移住を促進する必要がある」という認識が伺える。しかし、「高度経済成長」の過程で、労働力不足が中小企業や大企業の縁辺に必要とされる状況があり、中高年層を中心に余剰労働力を吸収するためである。
 この流動層への雇用対策の核となったのが先ほどの雇用促進事業団である。事業団は職業安定行政と表裏一体、相互補完の関係にたち、石炭産業を始めとする不況産業からの離職者あるいは就職困難な中高年層の雇用の促進に機能する。
 事業団の具体的な業務は、・移住資金の支給、・職業訓練手当の支給、・宿舎の貸与、・雇用奨励金の支給(昭和37年炭鉱離職者臨時措置法の一部改正され、離職者を雇用した事業主に大して雇用奨励金を支給するもので、当初は雇用主が離職者に支払った賃金の4分の1に相当する額を支給)、・住宅確保奨励金(事業主が離職者の住宅を確保するよう奨励するため、昭和35年4月から開始)であり、離職者の広域移動に障害となっていた住宅等の諸要因を取り除くものである。
  しかし、こうした広域職業紹介は、職業の転換と他地域への移住という二つが同時に進行するもので、従来の職業安定法の「適格紹介」と「居住地紹介」の原則を放棄するものであり、わが国の労働力政策の転換を意味する。(註16)
 一方、地域に滞留する離職者対策は、従来の失業対策事業に加えて昭和32年から「炭鉱離職者緊急就労対策事業」を実施、さらに44年からは「産炭地域開発就労事業」が実施された。(註18)
  これらの制度事業は筑豊の地域復興や、環境、衛生整備に大きな役割を果たしたが、地域のかかえる失業問題、教育問題、自治体財政など根本的な問題は未解決のままである。
  さて、ここで重要なのは、筑豊の炭鉱閉山により排出された10万人の炭鉱労働者とその家族の移動の数的な把握である。いったいどれだけの人が地域に滞留したのか、移動し都市労働者として吸収されたのはどのくらいの数になるのかということである。このことは移動層と滞留層の特性を明らかにするために、また、移動層が都市労働者としての再生コースにどれだけ適応したのかを分析するのに基本となるものである。
 しかし、残念ながらその正確な統計データはつかめてはいない。激しい「合理化」の過程での高い労働移動率や他地域への移動者のUターンと再移動、さらに大手?中小?請負夫?失対・生活保護という転落が統計資料の収集を困難にさせているし、何よりも炭鉱閉山から20年という時が資料の散逸を許してしまった。
 われわれがこの数年の調査研究によって収集した資料から、昭和34-48年の15年間の離職者数(広域職業紹介の開始から筑豊の完全閉山までの期間)を推測してみると。離職者数を約8万人とすると、そのうちのほぼ4割近い3万人が筑豊から県外に再就職したものと推測される。(註19)


6 移動層の定着化

 炭鉱の「合理化」の過程で排出された労働者は、地域に滞留する部分と他地域に移動する部分に分けられた。離職者対策によって遠隔地に流失した炭鉱失業者は、現役労働者といして再生のコースにともかくのせられたというかぎりにおいて、産炭地に滞留し沈澱してゆく炭鉱失業者に比べ、全体として相対的に恵まれた部分であるということができる。それは、年齢的に中堅をなす基幹的な労働者であり、家族構成などの諸条件が比較的めぐまれていたからである。逆にいえば、滞留層は定年まであと数年という状況で、長年住み慣れた土地を離れることは苦痛であり、子どもの学校や、年寄りのことを考えると「動けない」「今更、第二の人生を始めるには遅すぎる」人々であった。
   @ 表13 離職者の地域・年齢階層別就業実態
    ───────────────────────────────
     年齢   ? 34才  35?59才   60才以上   不明    N(=100)
  ────────────────────────────────
 産炭県   9.2     84.3       5.2       1.3        2,032
 受入県     28.6     71.1       0.2       0.1        1,973
  ────────────────────────────────
 出所 雇用促進事業団「炭鉱離職者の就業実態に関する補完調査結果」1967.1
                     (1963.64年度就職者)から作成。

        表14 年齢階層別就職未決定者数
 個人の職業的発達段階と、家族周期からみれば、転職可能な年齢は35才を上限とするのが一般的である。(註20)また、採用する企業にとってもできるだけ若い方が好ましい。特に、企業規模の大きい事業所(求職者にとっては安定した職場であり、労働条件が比較的よい企業)ほど採用条件にみられる「年齢制限」は厳しく、ほぼ40才までとしている。(註21)
  広域就職したかれらは、炭鉱という地下労働、閉鎖的地域社会において形成された気質、生活、習慣、さらに、特に技能をもたず、激烈な労働運動の体験等が移動後の新しい職場・労働、地域社会に適応し、都市労働者として定着をするのは容易ではなっかた。一定部分は困難を乗り越えて定着をみたものの、あるものは産炭地にUターンし、あるものは再転職、再々転職という過程を経て最終的には生活保護にいたるものもある。こうした転落層を見つけだすことこそ、重要な課題だと考えられるが、われわれの追跡調査の過程では具体的に抽出するにいたっていない。わずかに「定着者」からのヒヤリング調査から得る「風聞」にとどまっている。
 ここでは、定着事例を紹介しながら「定着」の要件を抽出してみたい。
 われわれの調査で遭遇したN氏(離職時の年齢は38才)は、昭和41年に筑豊の貝島炭鉱(大手)を人員整理で退職。一年間の失業保険受給後、職業訓練学校にて旋盤技能を修得、42年に知人の紹介で愛知県の会社に機械工として就職する。移動時の住居は事業宿舎である。再就職して半年後に炭鉱の退職金を基に土地を購入する。そして3年後には家を新築し、「宿舎」からの離脱を行なう。この間に炭鉱時代の友人を頼って転職をしている。その後はその会社にて定年まで勤務し、現在は年金生活である。詳細については、「科研研究成果報告書」の甘庶論文を参照。
 N氏の事例を「定着」と判断したのは、持家取得、年金生活という経済的な側面、三人の子ども(娘)の嫁ぎ先が農家、会社員、自営業といずれも地付きであること、日頃の交際範囲が結婚した子ども、婚家、そして炭鉱離職者仲間、近隣と社会関係の幅・深度を上げることができる。
 次に「定着」の要件であるが、第一に上げられるのは着実な「生活設計」である。炭鉱での退職金に手をつけず、土地を購入し、貯金を基に新築するという生活態度。第二は、生活を支える「安定就労」である。炭鉱を離職しての再就職、さらに再々就職も「常雇」という恵まれた条件で就職できた。さらに、妻も夫と同じ会社で雇用され生活を補助しえた。第三に、こうしたN氏とその家族の「生活設計」「安定就労」を直接、間接にサポートし、現在も継続している炭鉱離職者の友人の存在である。この友人のなかに所轄管内の職安に勤務する者や労働組合の専従役員がいた。これらが「定着」の要件であるが、この背景には、N氏が貝島という大手の炭鉱離職者であり、このことが移動時、移動後の過程でプラスに作用していることを指摘しておきたい。(註22)


おわりに

 日本経済は産業構造の改革、構造調整の達成の過程で、日本の農業や石炭産業を切捨て、経済のサービス化とME合理化を展開し国際競争力を強めてきた。具体的な雇用対策としては労働力流動化政策の展開である。流動化政策の意図は余剰労働力を不足地域に移動させること、失業者の就職促進措置であるが、実際にはその後の雇用対策の流れからみると、雇用の不安定化の拡大であり、そのことが低賃金政策の実現に結節しているのではなかろうか。それゆえに炭鉱労働力の排出の実相を明らかにすることは、今後の労働と生活を考えるとき重要な資料となる。
 さて、すでに触れたように石炭鉱業の発展過程いおいて炭坑労働の供給源となった階層は、貧農、囚人、部落民、植民地労働者であり、戦後は引上・復員という工業出身者を加えつつも基本的には農村出身者であった。こうした炭坑労働力の階層性、危険な地下労働従事という労働の「履歴」を考えると、「流動化」の展開の実相はことさら重いものとなる。炭鉱離職者は「去るも地獄、残るも地獄」という厳しい「選択」の過程で、滞留層と移動層に分化し、前者はさらに失対労働者、生活保護層と「沈澱」したものも少なくュはない。後者は都市労働者として「再生」の途についたものの、「定着」に至る過程は平坦ではなかった。
 移動層の「定着」については「本人の年齢」「家族形態」等の労働者個人がかかえる条件については多少論じた。しかし、個人の能力、努力といったものでは解決できない条件、個人の背後に存在し、個人を規定する要因については論じてはいない。こうしたものをここでは移動の「客体的条件」として、表15のように整理してみた。
 

   表15 移動の客体的条件
────────────┬──────────┬────────────
  移  動   前    │ 移動形態・地域   │  移  動  後
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 企業類型               │ 移動方法      │ 企業類型
 ・財閥系の炭鉱         │   ・職安経由       │   ・公務労働
 ・地方の大手炭鉱       │   ・個人努力       │   ・大企業
 ・中小炭鉱             │   ・集団移動       │   ・中小企業
                        │   ・個人移動       │ 雇用形態・職種
職種                    │地域類型            │  ・常雇、正社員
 ・現業職(直接夫・間接 │   ・都市         │   ・臨時・パート
 ・事務職(職員)       │    ・地方都市、農村│
                        │    ・産炭地        │
────────────┼──────────┼────────────
企業内グループ異動      │  援助システム      │  雇用安定度
離職対策の充実          │  再移動の円滑性    │    職種への適応
                        │  ネットワークの形成│
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 移動前の条件では、炭鉱会社の類型が重要な役割を果している。三井、三菱といった財閥系の炭鉱では企業グループの相互援助システムの機能もある程度は可能である。さらに、企業、労働組合の援助等から、離職後の地域移動では職安経由による公的援助の円滑に利用できる。さらに、再就職先の企業では比較的に安定した雇用状態を確保しやすい。その他の大手炭鉱では、関連会社ミへの依存は期待できないが、貝島炭砿のように、第二会社設立による「「ゆるやかな閉山」の実現は、会社・労組・職安が再就職の態勢を可能にする時間的、経済的ゆとりもって斡旋業務にあたり、一応の成果をあげることができた。
 一方、中小炭鉱では大手のような援助システムが円滑に機能してはいない。閉山の時期が政府の対策が本格化する以前に集中したということもあるが、退職金や賃金の未払い、さら失業保険を受給できないなど、中小炭鉱労働者はその日の生活にも事欠くような状況であり他地域に移動できず、その多くは地域に滞留するしかなかった。
 移動前の条件では「職種」も配慮される必要があろう。採炭・掘進といった坑内労働に従事した労働者と職員といわれた事務・管理労働者では、労働力の流動性、一般性のレベルにおいて大きな差が形成されるからである。われわれの今までの知見では、基本的には職員層は事務職、鉱員層は現業職への水平移動がなされ、その流れのなかでは「定着」の差は特に問題とは言えない。むしろ企業規模の条件がより大きな影響を有していると考えられる。
 再就職の斡旋、紹介には会社・組合の仲介、個人努力などがあるが、いずれにせよ離職者の多くは、職安タ・雇用促進事業団という援助システムを経由している。その意味では、移動方法の差異は企業規模の従属変数と考える。移動方法で注目されるのは、20?30名の離職者が同じ会社に再就職するという「集団移動」、単独で再就職する「個人移動」かによる差異である。集団移動は大手炭鉱の鉱員層に多くみられる。炭鉱労働という特殊性、閉鎖性が克服されないというマイナス作用もあるが、移動後の多様な生活障害に遭遇した際には、精神的名支えになり得ることの意義は否定できない。
 最後に、本研究の課題は定着過程を明らかにするとともに、移動後の生活、仕事に適応できず再転職を繰り返しながら病気や高齢化等により労働能力を喪失し、生活保護層に転落した階層、すなわち転落層の実態を顕在化させ、両者の比較研究を予定している。転落層の本格的なアプローチは今後の課題である。

<註>
註1 日本石炭産業の時期区分を、どのように分けるかは緒論があるところだが、ここでは、戸木田氏の区分を参考にした。氏は、大きくは、戦後石炭産業の「再編成」期(1945-54)、「撤退」「解体」期(1955-70)に2分する。さらに、境界領域に吸収の中小零細炭鉱の大量閉山・大量失業が集中した「暗い谷間」の時期(i1953-56)をおいている。(戸木田嘉久「九州炭鉱労働調査集成」1989年)
註2 朝日新聞西部本社「石炭史話」嫌光社 1970  p.74。
註3 炭鉱独特の労務機構とし納屋制度は筑豊を中心に展開するが、その時期は明治20年以降とされている。(隅谷三喜男「日本石炭産業分析」岩波書店 1968 p.316
註4 「労働力の集募獲得は、鉱山基幹労働においては以上の困難をもつ。それは人をして最後にえらばしむる地底の苦役作業であって、「職業」の範疇外にあり、日雇的な重勤・不熟練労働を主たる内容としている。」吉村朔夫「日本炭鉱史注」御茶の水書房 1984 p.40)。
註5 三井資本は、その発展を支える「ドル箱」として三池炭鉱の経営にあたっ
ていった。その目的のために選び得る道は、極度の低賃金による労働者の抑圧と搾取の道であった。囚人労働の雇用はそのためである。(新藤東洋男「赤いボタ山の火?筑豊・三池の火とびと」 三省堂 1985 p.91)。
 炭鉱資本の発展における囚人労働の役割は、田中直樹「三池炭砿における囚人労働の役割」西日本文化協会「エネルギー史研究ノート」No6,1976 P.152-173
註6 「下罪人」は下級の鉱山稼働者の呼称である「下財」「下済み」がなまったもので下罪人=囚人を意味しない(永末十四雄「筑豊讃歌」日本放送出版協会1977  P17)。また、言葉のニュアンスは「みずから世の常ならぬなりわいにつく、あるいはつかざるをえない人」の意識がこのことばのなかに端的に表現されている。(水沢周「石炭?昨日・今日・明日」築地書館 1980   p.61)。
註7 「直方市史ー石炭鉱業篇」1979  P.370 )。 
註8 木下亀城「炭鉱の歴史?九州石炭鉱業発達史」日本地学研究会 1973  P.17)
註9 筑豊の炭鉱では、戦後も農村からの労働力の流入を積極的に行なっている。
戸木田嘉久「炭鉱労働力と南九州農村」(戸木田嘉久「九州炭鉱労働調査集成」1989年)。 
註10 炭鉱労働力の流動量と流動性の本質について、「炭鉱業のばあい、土建産業とともに、産業循環に応じいかなる資本制生産部門にもみられないドラスティックな大量労働者の排出量と排出速度が、炭鉱業の恒常的な労働力の価値切下げを強制する機構的な  であったと見なければならない。」(吉村朔夫「日本炭鉱史注」御茶の水書房 1984 P.358)。
註11 坑夫の移動、勤続は、農商務省「鉱夫待遇事例」 明治41年 P.13。
註12 筑豊での朝鮮人坑夫の雇用は、すでに大正の末ごろからみられる(直方市史)。金賛 丁「証言 朝鮮人強制連行」新人物往来社 1975 参照。
註13 新藤東洋男「筑豊の女坑夫たち」部落問題研究所  1974 参照。
註14「これら新規労働力が、固有の遅れた労務統括機構や低劣な労働条件とぶつかり、戦後炭鉱労働運動の中心的な部隊を形成する<後略>」戸木田嘉久 前掲書 P.204。
註15  隅谷三喜男「日本石炭産業分析」岩波書店 1968  P.405。 
註16  被生活保護に対する差別の酷烈を報告してやまない上野英信は「月に一度の生活保護の受給日のことを、このあたりの農民たちは「乞食の給料日」と呼んでいる、あるいはまた、いささかのユーモアをこめて「国家公務員の給料日」とも呼んでいる。」(上野英信「廃鑛譜」筑間書房 1978 P.45)。
 一昨年の夏に筑豊の中小炭鉱の住宅(現在は町営住宅)を訪ねた。そこは、昭和38年に閉山した(閉山時の従業員約400名)が、当時、会社は退職金も支払わず、給料は金券であり町には使用できなかった。さらに、電気、水道は止められ、その日の生活にも事欠くありさまだったので、約200世帯全員が一括して生活保護を申請した。それから、25年の現在でもこの地域では160戸のうち68世帯が生活保護を受給している。保護から自立した人は「どの家もみんな保護ですもん、なんでウチだけががんばらんといかんと、とおもっちょたとです。娘が中学に入って、教科書をタダでもらうと保護がばれるちゅうていやがるもんですから、それから仕事についたとです。」と話してくれた。
註17 炭鉱離職者臨時措置法における「広域職業紹介」の実施は、「労働力の地域間、産業間の流動化」をはじめて法制上で提議したものである。ここに、1960年の「所得倍増計画」の経済政策の手段としての積極的労働力政策の「原型」としての役割がここにある。松田和男「労働力流動化政策と教育・訓練・生活手段(上)(中)(下)、「経済科学通信」第19.22.26、1977-79年 参照)。
註18 産炭地開発就労事業は、産炭地域のうち特に長年にわたる失業者の滞留が著しく、その上に新たに炭鉱の閉山によって多数の離職者が発生する地域で、かつ開発の可能性がある地域において、地域の再開発に直接的に寄与することを目的とする事業である。
註19 この数字は、直方公共職業安定所による「筑豊?石炭と職業安定行政史」
から常用労務者を採用し、宮田町石炭記念館所有の「筑豊?石炭と職安」の筑豊石炭鉱業年表に記載されている「昭和36年8月30日までに県下炭鉱離職者1万名を突破」、と昭和38-48年までの「地区別県外就職状況」の合計15,517名、そして空白の37年を前年から推測して4,500名、それらの合計を3万人とした。
 なお、広域移動者はその多くが雇用促進事業団の支給する「移住資金」を受給していると考えられる。その数は、93,821人(昭和34-44)であり、その後の推移を考慮すると全国の炭鉱から10万人以上の労働者が地域間移動を迫られた。(「 炭鉱離職者対策10年史」 p.347)
註20 拙稿「職業移動研究の試み」(佛教大学大学院研究紀要 第8号 1980 P.142 参照)。
註21 愛知、大阪、兵庫、岡山、福岡各県の「広域職業紹介大正新規求人一覧表」
(昭和41年12月)。
 なお、筑豊の貝島炭鉱では、会社・組合の就職の斡旋において、中高年を35才以上、高年を45才以上とし、高年層の再就職には特別な配慮を行なった。(高川正通「貝島炭砿の離職者対策」文部省研究成果報告書:高橋伸一代表「離職にともなう生活の不安定化の実証的研究」P.46)。
註22 大手の炭鉱では、離職者の就職斡旋において非常な努力をおこなったことは前掲の高川報告でも明かであるが、求人企業においても細かい配慮で離職者をむかえている驕B例えば、貝島炭鉱から48名が就職した日産自動車の「貝島炭鉱の皆さんへ?赴任のしおり」には、自動車産業の将来性、追浜工場の概要、横須賀市の概要、労働組合、昇進・昇級の制度、給与、住宅と生活環境(物価・生活費の事例)、学校(学費・転校手続き・教科書)、家族の就職(関連会社への妻の就労紹介)、赴任日程、福利厚生(住宅融資・土地分譲)、炭鉱離職者の就職状況と定着率などが詳細に紹介され、離職者の家族生活に不安がないように配慮されている。(日産自動車追浜工場・昭和41年11月発行)
 



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