bQ.小さくても城下町(?)

1. 歴史地理学における城下町研究の対象
1950年代から70年代にかけて、日本の各地で自治体史の編纂・刊行が相次ぎ、近世城下町研究が活発になった。歴史地理学分野でも近世城下町研究を近世都市研究の中心に位置づけ、各地に分布していた城下町の事例的研究とともに、城下町の類型や発達段階に関する研究など、様々な議論があった。そのなかで、第2次世界大戦後の歴史地理学における近世城下町研究の枠組みを提示したのが藤岡謙二郎であった。
藤岡謙二郎が提示した近世城下町研究の枠組みとは、主に二つの条件でかたちづくられていた。
 @ 領国の首都であること。
 A 現代都市の歴史的基盤になっていること。(1950年代に発表された藤岡論文の中では、当時の時点で   「市」であることが指標になっている)
@の「領国の首都」という表現の主旨は、支配領域の政治・行政的、経済的、交通的、文化的等、様々な側面で領域の中心であるということである。領域の中心とは、政治・行政的には政治・行政的な意思決定機関が存在し、政策実施のための諸機関とそれらを管理統括する機関があること、経済的には領域における様々な経済活動を管理統括するだけではなく、領域内において最も高次の物品の集散地であること、交通的には陸上・水上を問わず領域内における最大の交通結節点であること、文化的には領域内において文化的活動が最も活発に行われ、かつ文化的情報の発信地であること、である。
Aは歴史地理学における近世城下町研究の意義を主張しようとしたものである。しかし、この条件づけによって数多くの城下町が研究対象の外に出てしまう。また、自治体の合併が進むと、「市」であることの意味も変わってくる。行政上の「市」=都市という考え方がこの主張の根底にあるが、21世紀の現在では通用しがたい条件づけである。
2. 一万石大名の陣屋村、陣屋町、城下町
藤岡が提示した枠組みのAはさておき、江戸時代に存在した城下町のどこまでが城下町研究の対象になるのだろうか。大規模な城下であれば、このような問いは意味がない。逆に、小規模な城下の場合、果たして城下町研究が可能なのであろうか。この点について最初に言及したのが藤岡謙二郎による「陣屋町」研究である。藤岡謙二郎は丹波国山家(現、京都府綾部市山家町)を事例にして城郭をもたない大名(城無大名)の陣屋を中心に形成された集落を「陣屋町」と名づけ、非城下町性を強調した。また、和泉国伯太(現、大阪府和泉氏伯太町)を研究した大越勝秋も伯太の都市的性格を否定する論考を発表した。大越はその結果に基づいて、伯太を陣屋町ではなく、「陣屋村」と呼んでいる。
一方、中島義一は東北・関東、さらに新潟県を調査し、「一万石大名の城下町」研究を進めた。そのなかで中島は、政治・行政機能の存在からそれらを「城下町」と呼んだが、一万石大名の陣屋を中心に形成され集落の都市的性格を藤岡・大越らと同様に否定した。
3. 検討すべき問題点    
  上記の内容から明らかなように、一万石大名の陣屋を中心に形成された集落に関する研究は、その都市的性格を否定する、つまり城下町的性格を否定する方向で進んだ。しかし、これらを通していくつかの検討課題も明らかになった。
  @ 「陣屋町」と「陣屋村」…城下町ではないが、陣屋町としての研究は成立するのか。
  A 「町」と「村」の違いはどこにあるのか(近世の都市と村落の境界は何か)。
     B 大名が拠点とする城郭と陣屋の違いは何か。
     C  藤岡・大越・中島らの研究で利用された資料は明治時代の人口資料、地籍図類である。明治時代の資料で江戸時代のことが研究できるのか。