城下町のかたち

名称 特色 事例
戦国期型 戦国時代の城下町の特色を受け継いで城下町の核となる城郭は典型的な山城で、侍屋敷や市町などが垂直的にも水平的にも隔たり、全体が分散的な城下町の型。外郭と呼べるようなものは存在していない。 高取(奈良県)津和野(島根県)岡(大分県) 二本松(福島県)  
1 総郭型 慶長期を中心に建設された城下町に多く、城下町全体を土塁や水堀からなる総郭(惣構)で囲い込む型。この場合、惣構=外郭になる。ただし、総郭内において城下町の各部分が依然として分散的で、明確な地域性をもたず、総郭内に耕作地を含むこともある。 小田原(神奈川県)徳山(山口県)
2 総郭型 基本的にはB1型と同じだが、城下町の各部分が凝集し、地域性が明確に現われた型。B1型よりも計画性が高いとも言える。 西尾(愛知県)高崎・館林(群馬県)豊後府内(大分県)福知山(京都府)大和郡山(奈良県)清洲(愛知県)小田原(神奈川県)徳山(山口県)
内町外町型 外郭が城下町の内部に移動し、その結果城下町には郭内と郭外の区別が生まれた型。この型は郭内・郭外の双方に町人地が形成されたもので、矢守氏は郭内の町人地は特権的町人層の居住地であると考えていた。 岡山(岡山県)彦根(滋賀県)水戸(茨城県)  
郭内専士型(郭外町人型) C型で郭内にあった町人地が郭外に移され、郭内が武家地で占められている型。また、総郭がC型よりさらに内部に移動して、武家地だけを囲むようになった型ということもできる。数の上で最も事例が多く、その意味では典型的な近世城下町の型である。 名古屋(愛知県)広島(広島県)桑名(三重県)大野(福井県) 
開放型 武家地と町人地との間に簡単な境界施設、例えば柵や門はあるが、外郭と呼べる施設はない。18世紀にはいって建設された城下町によくみられる型で、平和な時代にあって外郭といった強力な防御施設は不要になったということであろう。 鯖江(福井県)
崩壊型 E型では外郭が消滅したが、この型になるとさらに地域制までも崩壊し、武士と町人の混住が見られる。

類型化された城下町のかたちが意味するもの

矢守一彦は江戸時代に日本各地に分布した城下町の都市形態(矢守の用語で言えば「都市プラン」)に着目し、その特色を織豊期から江戸時代にかけて建設された城下町の形態を、A・戦国期型からF・崩壊型までの7類型に分類した。それは江戸時代の城下町の形態の話であるが、A・戦国期型が戦国時代に建設されたものを江戸時代になっても利用していたもので、またE・開放型が18世紀になって建設された城下町であるように、この7類型の成立は時代的に少しずつ異なっていて、各型の成立時期を見ていくと、A型→B型(B1型→B2型)→C型→D型→E型→F型、というように、城下町が建設されたその時々の政治・軍事そして社会経済情勢を反映しながら、城下町の都市形態がどのように変化してきたを示した(城下町の時系列的変容)。
こうした都市形態の変化は、近世城下町全体を視野に入れた巨視的な変化であるが、同時に個々の城下町においても時代に合わせて都市形態を変化させていたことも示している。C・内町外町型、D・郭内専士型の特色を述べたところで「外郭が内側に移動して」といったが、実際に外郭を移動して城下町を作り直すということはない。また、D・郭内専士型の説明で「郭内にあった町人地が郭外に移され」といったが、外郭としての水堀などは位置が変わっていないのに、居住者が居住地を移動することで城下町の型が変化しているのである。

矢守のこうした城下町形態の類型は、外郭の位置、地域制(ゾーニング)などの指標に基づいている。B・総郭型のように外郭が城下町の外周部に位置する型から、外郭が城下町の内側に移動し、やがて外郭そのものが消滅する過程は、擬制的とはいえ城下町の軍事的性格が徐々に薄れていくことを示している。しかし、何よりも重要なことは地域制の確立と崩壊の過程を示している点である。矢守にとって地域制とは封建的な社会秩序の空間的表現であった。地域制の確立は封建社会の身分制秩序を体現した都市の完成を意味し、地域制の崩壊はその身分制社会の崩壊、封建都市としての城下町の崩壊なのである。

城下町類型の注意点

城下町の形態はA・戦国期型からE・開放型までとするのが一般的である。矢守はF型を設定してはいるが、自身がこれは城下町の崩壊を示し、城下町とはいえないといい、F型についてはそれ以上言及していないためである。城下町では身分秩序にしたがって厳格に武士と庶民の居住地が区別されたというのが常識である。しかし、200をこえる城下町があれば矢守の類型に適合しない例も当然出てくる。