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巡礼 聖と俗とのジャンクション

 かつて全ての生き物が心を憩わせていた「聖なる世界」という故郷から、我々は随分と遠く離れた処にやって来て定住してしまった。浅はかな知識や概念分別によって武装した虚構の都会の雑踏の中で、皆が必死にもがいて生活している。どうやら随分とちがう所に来てしまったという後悔は誰の脳裏にもあるが、帰り道はそう簡単には思い出せないし、相当の出費を覚悟しないと帰れそうにない。曲がりなりにも住み慣れてしまった都会をそっくり引き払ってしまうだけの勇気もないが、溜まっている仕事も予定もすべてキャンセルしてここらで一度里帰りでもしてみようか。聖なる世界の故郷に里帰りするこの大事な旅は、しかし、魅力一杯のキャッチコピーで誘う功利的な都会の新興の旅行社なんかには任せておけない気がする。そうだ、あのジャンクションを通って記憶の彼方にある故郷を探す旅に出てみよう。そしてこの里帰りの旅から再びジャンクションを通過して走り慣れた都会の道に戻ったら、途絶えていた故郷との連絡も頻繁につくようになるかも知れない。

 聖なる地を巡り、聖なるものに触れる旅、「巡礼」という行為の中にはどうしても必要な二つの要素がある。先ず第一に普段の生活空間で我々が体験している「俗なる空間」とは異質の「聖なる空間」、そして第二に普段の生活で体感している「俗なる時間」を切り裂く「聖なる時間」である。もちろんこの「聖なる空間と時間」が俗なる世界へと再帰可能な可逆的な経験である場合もあれば、その経験の以前とそれを経験した後とが全く違う不可逆的な経験である場合もあるだろう。それは俗なる極に属する普段の生活が、どの程度宗教的であるかによって異なってくる。我々現代日本人のように聖と俗との二極が完全に分離した状態もあれば、聖と俗とが相互に侵食した状態も存在するのである。

 聖なる極に触れるためには、俗なる生活における論理や秩序は一時的にせよ放棄される必要がある。損か得かという普段の思考はここでは用をなさない。出家という強行手段をとって俗なる生活を放棄する場合もあるだろう。その場合多くはイニシエーションという不可逆的な経験を必要とする。それを境として、俗なる関係一切を投げ捨てて宗教的な生活へと突入するのである。決められた時間と特定された社会空間の秩序の中で、我々の俗なる生活は歩みを持っている。いや、我々はそれらに振り回されているだけで、現実には時間と社会関係の秩序こそが我々の俗なる生活の主人公と言ってもよい。巡礼によって人々はこの俗なる極を一時的にせよ離れて、聖なる空間と時間とにその身を委ねるのである。自らの中の時間と空間とを聖なる源処に里帰りさせ、再び活性化させようとするのである。

 巡礼を終えた者に対する社会的な反応にも様々なタイプがある。イスラム教徒のメッカへの巡礼には、特別な社会的ステータスが用意されている。メッカ巡礼を終えるとハッジというタイトルがその巡礼者にはつくのである。お伊勢参りにもそれなりのステータスがあった。しかし、ヒンドゥーの巡礼にもチベットの巡礼にもそのような社会的なステータスは用意されていない。その意味ではチベット人の巡礼はきわめて内面的なものとも考えられるが、しかし、満足感というだけでは説明はつかないであろう。やはり何らかの保証がそこにはあるのだ。お正月以外は普段シカトをして通り過ぎている神社に入学試験の合格祈願のために神妙に詣でて、祈祷を受け絵馬を奉納する。家に帰って勉強机の前に座ってみると、別に社会的に保証された訳でもないのだが、自分の内面では試験の点数がほんの一点でも保証されたかのような気分になる。その保証がきわめて内面的なものなのだ。功徳の蓄積はその本人にしか自覚されないのである。

(『チベット巡礼』(KDDクリエイティブ 1997)のための原稿として書き下ろしたのですが、編集の過程で没になり発表断念した部分です)