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チベットの釈迦信仰

 その昔、聖地ラサを目指す巡礼の列は、先ずリンコル(=外環)と称される外周環状路を時計まわりに幾度も幾度も右遶(うにょう)して後、「ラサの門」と人々に呼ばれたチョルテン(仏塔)の中を通ってラサ市街に入り、ユトサンバ橋のところで検査を受けてからトゥルナン寺(大招寺、チョカン寺とも呼ばれる)の周りを巡るパルコル(=中環、「八角街」と中国語では呼ぶ)の巡礼へと進むのがお決まりのコースであった。そしてラサ巡礼のクライマックスはトゥルナン寺本尊の釈迦像参拝である。今日ではそのラサの入り口の門があった場所にはチョルテンは無くなっていて、そのかわりあまり品のよくない巨大なモニュメントが突っ立つ大きな交差点があり、多くの車と自転車が行き交っている。その交差点を北に少し行った所に解放後新たに作られた外周路が走り、それよりもっと外側に去年、更に一本広い鋪装道路が出来た。この道は河口慧海師が留学していたセラ僧院とラサ市街を結ぶ道路に交差していて、最近その周辺には新しい住宅街や事務所がどんどん建て混んできた。近頃ラサでも一般化してきた携帯電話で話しながら若い中国人青年実業家が高級乗用車を片手運転しながら飛ばしていく。

 話は千三百年近く遡る。チベット建国の祖として、チベット人達が敬慕するソンツェンガムポ王は息子のクンソンクンツェンを新王として立て、その妻として六四〇年に大唐国から文成公主(ぶんせいこうしゅ)を迎え入れた。彼女と新王はしばらくは青海省方面に住んでいたようである。ところが新王は三年後に早逝してしまい、ソンツェンガムポ王は再び登位せざるを得なくなった。文成公主のほうは誕生した遺児のマンルンマンツェンを引き連れてラサに入り、亡き夫の菩提を弔う為にラモチェ寺を建立して唐から仏像を取り寄せて祀ったのである。三年の喪があけてから文成公主は父王のソンツェンガムポ王と再婚する。

 ソンツェンガムポ王にはすでにネパールから迎えた王妃ティツゥンがいた。後世のチベット人仏教史家達は、ソンツェンガムポ王を観世音菩薩の化身と見なし、文成公主とティツゥンの二人を白多羅母尊と緑多羅母尊の化身であるとする。そのネパールから迎えた王妃ティツゥンが建立したのがトゥルナン寺であると伝承されてきた。ラモチェ寺は東の唐のほうを向いて建てられており、トゥルナン寺は西のネパールのほうを向いて建てられている、と云うのだがあまりに話が良く出来ていて本当かどうかは分からない。トゥルナン寺はソンツェンガムポ王の没後にその菩提を弔う為に建立されたとする説のほうが説得力がある。

 ティツゥンがネパールから迎えたのは不動金剛仏であったと伝えられているが、その仏像は或る時期からは文成公主が建てたというラモチェ寺の本尊となり、ラモチェ寺の本尊であった唐からの仏像がトゥルナン寺の本尊となったと伝えられている。この交換トレード的本尊入れ代わりの経緯については数々の伝承があるが、有名な『プトゥン仏教史』によれば、文成公主がソンツェンガムポ王の死に際してラモチェ寺の本尊をトゥルナン寺の脇の部屋に移して「その戸口を漆喰で塗り込めて壁にし、そこには文殊像を描くように」と命じてティツゥンと共に観音像に融け込んで没し、その後、大臣達は文成公主の遺言に従ってラモチェ寺とトゥルナン寺に安置されていた仏像を入れ替えた、というのである。ダライラマ五世の伝える経緯はすこし違う。両像が交換されたのは吐蕃と唐との交戦の時のことで、唐軍が釈迦像を取り返しに来るという噂がながれたのでその対策の一環として、ラモチェの本尊がトゥルナン寺の南門脇のお堂に移され、不動金剛像がラモチェ寺に安置された、というのである。

 両像にまつわる話はこの入れ替わりのことだけではない。そもそもトゥルナン寺はチョカンとも呼ばれるが、それは移し替えられた本尊がチョウォ(瑞像)即ち釈迦瑞像であるからだとされる。しかし現在みられるトゥルナン寺本尊はどう見ても瑞像の姿はしていない。重ねられた衣装や宝石飾りに隠されて定かではないが、触地印をした座像のように筆者には見える。一方ラモチェの本尊となった不動金剛像もダライラマ五世の記録では「すでに失われた」とされるのに、二十世紀初頭のシツの巡礼記では再度造立されたのか「在(ま)します」と記録されている。現在のものはかつてのものとは違う可能性が強い。

 さて、両像にまつわる興味深い伝説は遠く釈尊時代のインドに遡る。『増一阿含経』巻二八には、次のような伝説が語られている。

「釈尊は三十三天に昇り、そこに再生していた生母摩耶夫人の為に説法し、滞留すること三か月に及んだ。地上では久しく如来の姿を見ず、如来を思慕する波斯匿王と優填王とは、憂愁のあまり病臥するに至った。群臣の勧めもあって優填王は国内の巧師匠を集めて牛頭栴檀を以て高さ五尺の如来像を作らせた。波斯匿王もこれを伝え聞き、紫磨金で同じように五尺の如来像を製作させた。閻浮里すなわち印度の地に、初めてこの二躰の如来像が存することになった。」

この優填王思慕像の話には後日談が付け加えられて、『栴檀瑞像記』なる中国撰述文献を生み、その記述は後にウイグル語訳からの重訳でチベット語訳されて『栴檀の御身体が中国に来られた経緯』と題され北京版西蔵大蔵経にも収載されている。それによれば、

「[人界に戻られた]世尊は、御手を延ばしてその栴檀像の頭頂に手を置いて、私が涅槃に入ってから千年経ったら中国に行って人々の為に働くだろう、と[予言の] 御言葉を述べられた」

とある。コントゥルの『百科全書』には古えの伝承として次のような話がひかれている。

「[像が作られた時] 教主釈迦牟尼の御齢八歳と十二歳の像は、御母堂の言葉通りに作られた。御齢二十五歳の教主像は、一般によく知られる寸法で作られた。その釈迦牟尼像は教主自身によって、お顔からの光を放ったり納めたりというように加持されたのである。御齢二十五歳のご身体の寸法を写した釈迦牟尼像は、インドラ神によってインドの地に留められ、御齢八歳と御齢十二歳の寸法を写した像はインドのウルゲン地方やブッダガヤなどに長年留められた後、デーヴァパーラ王の時代に御齢十二歳のほうは中国に、御齢八歳のほうはネパールに移された。」

コントゥル自身は十九世紀の人物であるが、同様の話はすでに古く十四世紀には前述のトゥルナン・ラモチェ両寺のご本尊と結びつけられてチベットの史書に登場している。『テプテルマルポ』史は、

「御齢十二歳の寸法の釈迦牟尼像は唐の太宗の王女文成公主が、御齢八歳の寸法と言われる不動金剛像はネパールの王アムシュヴァルマンの王女ブリクティ(=ティツゥン)が、夫々チベットへ嫁ぐ際にもたらした」

と伝えている。そして前述のトレード話へと話の尾ひれはどんどん延びていくのである。

 「栴檀瑞像」という呼称を持つ釈迦牟尼像は特別なお姿をしている。右手を施無畏印、左手を与願印にした立像で、最大の特徴は通肩にした衣の襞の美しさである。これは元々の材質である栴檀木の木目を利用したところに発するのであろう。木材資源に乏しいチベットではしかし後世には材質は鋳造の金属にはなったが、木目状の衣文は受け継がれ多くの作例がある。

 我が国の旃檀瑞像と言えば、京都嵯峨清涼寺の「三国伝来の釈迦像」が有名だが、その釈迦瑞像は入宗求法僧の周 然(ちょうねん)が、当時の主都開封の宮城右街に位置する啓聖院で安置されていた釈迦像つまり真正の優填王思慕像と伝えられていた栴檀瑞像を模刻させて九八六年に日本に将来したものである。模刻のもととなった瑞像はすでに唐時代からずいぶんと有名であったらしく、「羅什によって中国へもたらされた」などという伝説も付け加えられながら、涼州、長安、揚州、そして金陵(南京)、開封というように時の権力者のもとを転々としていた。その間に模刻も幾度となく行なわれたようだ。元代には大都聖安寺、清代には北京の弘仁寺に安置されたが、義和団事件(一九○○)以来いったい何処にお越しになってしまったのか、とんと行方は分からなくなった。清代の模像の一つである北京・雍和宮の瑞像は清涼寺の瑞像と、謂わば歳のずいぶん離れた兄弟関係にあたる。文成公主がチベットにもたらした釈迦像が本当に「栴檀瑞像」であったのかどうかは定かではないし、DNA鑑定する訳にもいかないので想像の域を出ないが、唐代に作られた同じような兄弟模刻であった可能性はある。しかしどう考えればよいのか、現在のトゥルナン寺本尊釈迦像とは随分とお姿が違う。

 ポタラ宮の中には栴檀瑞像をモデルとしたかわいい瑞像が保存されている。そのあどけない瑞像のお顔を拝していると、遠い国へと嫁いできた公主達の心を慰めたのはこんな風なお像ではなかったかという勝手な想像が筆者には浮かんで来る。

 それにしても、瑞像のお釈迦さまは忙しい。どの国にお越しになっても、ひと所にゆっくり落ち着かれる事なく、仏縁を結ぶためとは言え、慌ただしくあちらこちらへ御行幸にお出かけになるのである。やはり只者ではない。

(『大法輪』平成11年4月号より)