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2017年印仏学会ちょっとだけ(第五部会)報告

 

 日本印度学仏教学会第68回学術大会が9月2日(土)と9月3日(日)に花園大学を会場として開催されました。チベット関係は第5部会でした。チベット関係の発表は「密教」の括りに入れられたり、「認識論」の括りに入れられたりして分散しているのですが、2日(土)午後の第5部会はチベット部会と言ってよい発表が続きました。

第5部会2日午後

■石田勝世(九州大学大学院)蔵訳『賢愚経』諸本の章題比較

 1番目の発表は九州大学大学院の石田勝世氏の発表でした。チベット大蔵経の系譜に関してはアイマー先生の偉大なご業績を継承展開させて多くの研究者が各個の経典の系統図(ダイアグラム)を作製しその継承関係を研究し続けています。異読を見ながら親子関係を推定しながら、私も昔、これってDNAのようなものを調べられたら良いのにな、と思っていたのですが、石田勝世さんは実際にそれにトライしておられます。統計解析の生物学的手法(実際にはSplitsTree4という系統推定ツール)を使って異読から系統樹を作っておられます。今回は章題だけなのでデータが十分ではないのですが、興味深い挑戦だと思います。

■更蔵切主(大谷大大学院)アティシャに帰せられる byang chub lam gyi rim pa について

 カダム全集の第4集に収められている『菩提道次第論』は従来のアティシャの著作目録には見られない著作で、奥書によるとアティシャがドムトンバのために著述し与えたものということになっています。『菩提道燈論』と同じく小士・中士・大士という修行階梯に基づいてはいるようですが、『菩提道燈論』のように密教への言及はないそうです。そして小士から中士、中士から大士への順に修行を進めるべきものとして説かれているとのことです。カダム派には立場や理解の異なる派が分立しそれぞれが正統性を主張しますが、この書がほんとうにアティシャの著作であるのかどうか、後世の手が入ったものなのかどうかは今後十分に検討され議論されるべきだと思いました。
 

■拉毛卓馬(大谷大大学院) ツォンカパの中観思想における「離戯論」について

 ツォンカパが「戯論」という言葉を2種の意味で使うことは有名です。ひとつは目の前の世界を真実なるものとして思い込む働きとしての戯論、もうひとつは言説有としての現れの「戯論」です。また、その戯論から離れる「離戯論」という表現だけではなく「戯論寂滅」という表現や「無戯論」あるいは「戯論を見ない」というような表現も著作の中には現われるそうです。この発表ではこれらの用語がどのような文脈の中で使われているかを調査し整理した発表でした。昔私が学生の頃、立川武蔵先生の書物の中にプラパンチャを「多元性という思惟の虚構」と訳されているのを見て驚きました。今にして思えば名訳ではないかと思います。

■崔境眞(JSPS外国人特別研究員・広島大学)ゴクの『量決択難語釈』における決知(yongs su gcod byed)

 ゴクローツァーワはダルマキールティの『量決択』とダルモーッタラの『量決択註』を翻訳し、自分でも『量決択難語釈』を著述して解説しています。ダルモーッタラが直接知覚は分別知と協動して決知してプラマーナの働きを完成させる、と理解したことに沿う解釈をゴクは行なっていますが、ダルモーッタラのその解釈はチャパによって批判されその弟子のツァンナクパにもゴクの理解は継承されていないといいます。チャパ独自の解釈はサパンによって批判されることになりますが、その議論の中でもゴクの解釈のしかたは忘れ去られていくのだそうです。発表を聞いていて、ダルモーッタラの書いた文章を目の前に置いて、これを書いた時のダルモーッタラの真意は何だったのかをうんうん唸りながら考え抜いているゴクの姿が思い浮かんできました。

■谷口富士夫(名古屋女子大学)『現観荘厳論』トルボパ註における二種の智慧

 チョナン派の代表的学僧であるトルボパが『般若経』の注釈書である『現観荘厳論』に対して解説したトルボパ註をとりあげ、そこで一切智性をどのように解釈しているかを紹介した発表でした。トルボパは『現観荘厳論』の構造を基体(gzhi)、道(lam)、果('bras bu) でまとめ、その上で基体と果は無区分とするそうです。その基体を構成する一切相智性と道智性と一切智性の三つの智慧はそれぞれ、仏の智慧としての一切相智性と、菩薩の智慧としての道智性、そして声聞と独覚の智慧としての一切智性と解説されているそうです。

■福田洋一(大谷大学)初期チベット論理学における mtshan nyid の mtshan nyid を巡る議論

 福田先生がずっと追いかけているテーマのひとつがこのmtshan mtshon gzhi gsum です。チベット社会でmtshan nyid ツェンニーという言葉は「哲学」という意味で使われることが多いのですが、これはすべての存在を「定義」を通して考える哲学者たちの思索方法に基づいています。今回のご発表のテーマは日本語で言えば「定義」を初期のチベット僧院ではどんな風に定義していたのか、という事です。福田先生はカダム全集の中のチャパ・チューキセンゲの書物から「定義」の定義に関する部分を取り出してその内容を吟味されています。先生によればこの部分の後に「所定義」の定義や「定義例」の定義もあるとのことです。ぜひそれらについても研究を進めていただきたく思います。若い頃、問答を習っていた先生から「定義は定義ではあり得ない、定義には定義があるからだ」と言われて何を言っているのか分からずドギマギしたのを思い出します。

■予告されていた国士舘大学の原田先生の発表は体調がお悪くて取りやめになりました。

 昔はあの発表も聞きたい、この人とも挨拶したいと思っていろんな部会の教室を渡り歩くのが学会だと思っていましたが、最近腰痛が激しいのも一因ですが、じっと動かずに一つの部屋で発表を聞き続けることに楽しみを見いだしています。内容全部が完全に分かるわけではありませんが、何とかついていく脳を失いたくないという老人のあがきです。しかし、どの発表も各々興味深い話題でした。