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キティノフ博士とカルムク共和国

 北京の蔵学研究中心(チベット学研究センター)で開催された国際学会で小野田はカルムク共和国出身の学者バートル・キティノフ博士に会った。現在はモスクワで研究職に就いている。カルムク共和国という国に以前から強い興味があった。この国も勿論ソビエト連邦崩壊によって独立国になった国である。独立国になった途端、奇妙な事態になった。ヨーロッパで唯一の仏教国となったのである。現在の人口は約33万人と発表されているが、その半分以上がカルムク人で、彼等の宗教は伝統的にチベット仏教なのである。そう、カルムク人は人種的にはモンゴル民族でその故郷は遠くジュンガルの地、すなわち彼等はオイラト・モンゴル人なのである。

キティノフ博士1

 オイラト・モンゴルにチベット仏教が伝えられたのはザヤパンディタの努力によるところが大きい。ザヤパンディタ一世は1599年にホシュート部で生まれ18歳の時にはチベットに留学を果たし22年間勉学に務めた。ダライラマの命を受け布教のために故郷に帰った後はモンゴル地域を転々としながら各地で説法をしてオイラトにチベット仏教を根付かせたのである。

 カスピ海沿岸ボルガ川河口のこの地域にオイラト・モンゴル人がやって来たのは17世紀初頭である。その後ロシアの勢力が拡大しロシア正教への改宗の強要と重税をロシア人は要求してきたのである。そしてそれらの圧力に耐えかねたオイラト・モンゴル人達は故郷への民族大移動を敢行する。1771年のことである。この時10数万人が旅立ったがその内半分は途中で命を落とし、現在の新彊地区に達したのは数万人である。ボルガ川河口に留まったオイラト・モンゴル人は「カルマック(居残った人)」と呼ばれるようになったのである。


 バートル・キティノフ博士の今回の研究発表は1771年以降のチベット仏教とカルムク人達との繋がりについてである。ロシアはこの大脱出劇の後、チベットとカルムク人との結びつきを断とうと働きかけたが彼等はイリやタルバガダイのカルムク人との強い結びつきを堅持したのである。

 今回の発表では当然ふれられてはいなかったが、ソビエト時代、カルムク人は現在激しいレジスタンスを展開しているチェチェン人やイングーシ人(すべてカルムクのお隣り)と同じく「ドイツに協力した」という無実の罪でシベリア各地に追われた人が多い。ロシアが「ウルス政策」と呼んでいた粛清作戦である。家畜輸送用の貨物列車に押し込まれ森林伐採の強制労働をさせられたのである。


 とにかくソビエトは崩壊した。現在はチベット仏教寺院が多く再興されモンゴルやインドの僧院に留学した若い僧侶が数多く活躍している。バートル・キティノフ博士によれば、モスクワにも仏教会が設立され、その実質的な推進役はチベット仏教を信仰するカルムク人であるという。

 一緒に故宮博物館の特別展「故宮蔵伝仏教文物特展」を見ていて、バートル・キティノフ博士が「あっ」と小さな声を上げた。彼等の故地オイラト・モンゴルにチベット仏教を伝えたザヤパンディタの像が展示されていたのである。博士の目が輝いた。ロシア帝国時代ソビエト連邦時代がいかに暗く重く長かったのか、今、自らのアイデンティティーを自らの意志で語れる幸せがどれ程貴重なものなのか、その目の輝きがはっきりと語っていた。

キティノフ博士2