第29回鷹陵史学会大会 公開講演会
「2020年代の西洋中世史を展望する」

日時:2020年9月26日(土)14時~
開催方式:オンライン Zoom使用

多くの方にご来場いただき誠にありがとうございました。
講演およびコメント、趣旨説明につきましては、『鷹陵史学』の次年度号(2021年9月刊予定)に掲載する予定です。少し先になりますが、そちらもご覧いただければ幸いです。

鷹陵史学会大会 研究報告を含む案内ポスターこちら

プログラム

14:00  【趣旨説明】 水田大紀(佛教大学准教授)

【講演】
江川 溫 (大阪大学名誉教授/佛教大学特任教授)
     「これからの西欧中世史研究のために
    -12世紀以前のフランス中世史研究の視点からの提言-」

  
朝治 啓三(関西大学名誉教授)
    「シモン・ド・モンフォールの議会再考」

服部 良久(京都大学名誉教授)
     「ヨーロッパ中世史における「公共性」論の可能性
」 
   
休       憩
17:00  【コメント】 佐藤 公美(甲南大学教授) 
   
   司会 塚本 栄美子(佛教大学准教授) 

講演要旨

江川 溫「これからの西欧中世史研究のために
-12世紀以前のフランス中世史研究の視点からの提言-

 私たちフランス中世史研究者の研究環境は21世紀に入り、インターネットの役割の増大によって大きく様変わりしている。刊行史料集や古典的な研究で1930年ごろ以前の刊行のものは自宅のコンピューターでの閲覧が可能になった。写本や文書については、デジタル画像化されたものも増えてはいるが、まだごく一部に限られる。他方で史料の刊行ということになると、フランスでは12世紀以前のものは大部分が何らかの形で刊行されているのに対し、13世紀以降のもの、とりわけ地域社会で作成され、地域の文書館に収蔵されている文書はほとんど刊行されていない。これを総括すると、12世紀以前の政治、宗教、社会に関するテーマの相当部分は日本在住のまま、フランス在住者とほぼ同等の環境で研究が進められる状況になったということになる。

 このような状況で、12世紀以前のテーマに取り組んで、オリジナリティを伴った成果を挙げるために、また西洋史の他の地域・時代に取り組む研究者や人文・社会科学研究者の関心を引き寄せるような成果を挙げるために、どういう視点・方法が有効であろうか。ここでは3点に絞って提言したい。

一叙述史料の高度な読み

12世紀以前の諸問題を扱う場合、叙述史料への依存は避けられない。歴史学的関心から過去を解釈する際に、叙述史料に依存することで陥りやすい罠についてはこれまでも議論されてきた。しかし現在では個々の叙述史料をテクストとして総合的な観点から捉え、その構造、メタ構造を分析した上で、それが個別事象について語っていることの意味を問い直すような研究が内外で発表されている。このような高度な読みが今後はますます重要になるだろう。

―西欧諸国についての柔軟な比較史

 西欧諸国の伝統的な歴史叙述はそれぞれの地域の個性を強調してきた。現代の新しい研究動向もそうした国毎の特殊性を強調する方向性を持っている。しかしこうした特殊性は歴史叙述の伝統によって誇張されたものであり、そのまま社会的実態の差異とはいえないのではないか。このような問いかけはスーザン・レナルズがつとに行い、西欧封建社会の共通性を論じていた。近年ではチャールズ・ウエストが『封建革命の再構築:マルヌ川とモーゼル川の間の政治的社会的変革 800年頃~1100年』(2014)において独仏の研究動向を交差させながら柔軟な比較史を試みている。こうした俯瞰的視点の研究が日本で活発になれば、わが国の西洋史学の意味を内外に認識してもらうことにもなろう。

―長期のパースペクティヴ、および世界史の中での意味づけ

 長期のパースペクティヴについては、「長い中世」論としてさきごろ紹介したところである。フランスではル・ゴフに始まる「長い中世」論、すなわち4世紀から17,18世紀までのヨーロッパを農業中心のキリスト教社会として捉え、その「長い中世」がヨーロッパ史、世界史に持つ意味を考察する議論が活発である。12世紀以前の諸問題の考察も、その時代の専門家の間の議論に対応するだけでなく、こうした長期のパースペクティヴの中での意味づけを考え、他の時期を専門とする研究者と開かれた議論を展開する必要があるだろう。また世界史の中での比較史、関係史についても、常にその方法を検討しつつ、発信していくべきだと考える。 

朝治 啓三「シモン・ド・モンフォールの議会再考」

 日本の歴史学の近代化は、1889年にランケの弟子ルートヴィヒ・リースが東京帝国大学に招かれ、重野安繹、久米邦武らに西洋史学の方法を伝えてからであると言われている。歴史学の近代化を志した久米は、その後筆禍事件に遭遇し、帝大を退職することになった。当時のマスコミは学問ほど近代化していなかった。一方明治政府は富国強兵策を採り、政治の近代化策として憲法をプロイセンから、議会制度をイギリスから取り入れた。ところでかのリースの学位論文は、イギリス議会制度の成立を論じたものであるThe History of English Electoral Law in the Middle Ages

 当時イギリスに留学していた日本人研究者は、19世紀末イングランド議会政治の盛行に感動し、それを理想化して築かれたかの地の歴史学を受け入れ、それを手本に日本の教科書を作成した。その過程で1265年のパーラメントをいわゆる「シモン・ド・モンフォールの議会」と呼んで、庶民院の成立の契機とみなした、いわゆる古典学説をそのまま受容した。明治時代に輸入されたイギリス議会成立史についての我が国の教科書の原型は、その後大きな変化をすることなく受け継がれてきた。

 1990年代からIT化によって、それまで古文書館へ詰めることが可能な一部の研究者にしか接近し得なかった羊皮紙史料に、世界中の研究者がアクセスできるようになった。その結果、刊行史料に大きく依存して描かれた歴史像は、多くの異論に遭遇し、修正を余儀なくされることになった。例えばシモン・ド・モンフォールの議会に召集された州代表の騎士や、都市代表の市民は、パーラメントで国政論議に参加したのか。シモンが騎士や市民を召集した理由は何か。「シモンの議会」の後、市民が召集される機会が激減するのは何故か。下級聖職者は何故召集されていないのか、など。

 今回は126465年のシモン・ド・モンフォールのパーラメントについての先行研究が描いた歴史像を、史料に基づいて再考し、異なった歴史像を描けるのか否かを検討しよう。中世のパーラメントを、近代の議会を基準にして幼稚な制度、未発達な意識として低く評価するのではなく、その時代に見合った制度であったのではないかという視点で再考する。1990年代以降、イングランド人研究者のみならず、アメリカ、フランス、イタリアの若手研究者が英語で論文をウェッブ上に公表している。日本人研究者がその中に加わってもよい時期に来ている。明治時代の日本人研究者がヨーロッパを仰ぎ見ていた状況は既に終わり、今日では我々は世界中の研究者が同じ史料を根拠に独自の研究を成し遂げるべき状況にいるといえるのではないか。

 服部 良久 「ヨーロッパ中世史における「公共性」論の可能性」 

「アナール」影響下の従来的な社会史が研究対象の細分化等により閉塞感を強めつつある一方、「グローバル・ヒストリー」と並んで、しばしば「新しい文化史」(文化論的転回)と総称されるアプローチが関心を集め、また様々な成果をも生み出してきた。その特色は一括りにできるものではないが、総じて学際的(特に人類学の影響)で、規範よりも実践(ハビトゥス、プラティーク、パフォーマンス)を重視するものである。しかし「新しい文化史」も既に次の段階に移る時期に来ていると考えるピーター・バークは、その一つの可能性として、「文化史」のさらなる対象領域の拡張を挙げ、事例として暴力、情動とともに、政治文化史に言及する(他の二つの可能性は、伝統的文化史の復活、社会史の「逆襲」)。

欧米の中世史研究においても社会史から文化史への転回において様々なトピックが取り上げられてきたが、本報告で論じるのは、アナールの系譜を引く社会史的文化史ではさほど関心を引くことのなかった、中世における「公共性(圏)」public sphere, Öffentlichkeit, espace publicである。この概念は言うまでもなくハーバーマスの近世における「市民的公共圏」のテーゼに由来するものであり、中世に「公共性」概念を用いることはアナクロニズムだとの批判があるのは当然であろう。しかし今世紀に入って各国で中世の「公共圏」に関する論文集、単著が相次いで刊行された。その中にはConnel, C.W., Popular Opinion in the Middle Ages, 2016のように「公共圏」を表題に掲げていない文献もあるが、著者は繰り返しpopular opinionと不可分の概念としてpublic sphere, the public, publicness, public voiceなどを用いている。またMelve, L., Inventing the Public Sphere. The Public Debating during the Investiture Contest (c. 1030-1122), 2 vols, 2007ではやはり公共圏を形成するpublic debate, public discussion, public culture, political publicといった概念が頻出する。勿論こうした言葉の含意を考えねばならないのだが、これらの研究によれば叙任権闘争期において、教会改革や王権と教皇権の関係をめぐる知識人(王、教皇の書記局、聖職者、教会法学者など)のオープンで濃密な論争において意識されるようになった「公共・公衆(社会一般)」「公論」は、政治的な力のリソースと見なされた。司祭のモラルや妻帯をめぐる論争文書やプロパガンダは俗語化され、民衆の噂、ゴシップにまで及んだのである。以後中世後期に及ぶ「公共性」をめぐる近年の研究は、リテラル、オーラル・メディアを絡めたコミュニケーションとネットワークが生み出すメタフィジカル、フィジカル(パブリック・アリーナとしての市場広場、市庁舎、公会議など)な言説空間を、政治と社会のコンテクストとの相互関係において多面的に捉えようとしている。また中世の「公共性(圏)」は社会的実体というより、その存在と機能は権力の社会に対する正当性意識や戦略に依存するところが大きいことから、この概念の構築性が問われねばならないことは明らかである。必ずしも明示的ではない「公共性」の史料所見については、「転回」以後の言語とテクストに関する議論をふまえた検討が必要かつ有意義であろう。

このように国家権力から自立した「市民的公共性」とは異なり、政治と社会の未分化な中世の「公共性」は、権力と社会の相互関係が生み出すダイナミズムを固有の政治文化として明らかにする可能性をもつ研究課題の一つである。本報告ではこのような視点から最近の研究成果を参照し、現代歴史学における中世史研究の位置づけを試みたい。